高恒 (清)

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高恒(こう こう、康熙56年(1717年) - 乾隆33年(1768年))は、中国代の政治家、大臣、官員、外戚。字は立斋。父は文淵閣大学士高斌満洲鑲黄旗人。姉は乾隆帝の妃嬪慧賢皇貴妃

初期

乾隆帝の治世初期、高恒は恩蔭により戸部主事(財政部門の官僚)に任じられ、さらに昇進して戸部福建郎中となった。乾隆15年(1750年)には山東巡塩御史の監督官)に任じられ、その後、山海関淮安の税関、張家口の税務を監督し、芦塩政(塩の管理官)や天津総兵(天津の軍総司令官)を歴任した。乾隆22年(1757年)には両淮塩政(両淮地方の塩務を統括する役職)に就き、8年間その職を務めた。乾隆29年には上駟院卿に任じられたが、引き続き両淮塩政の職を兼務した。

乾隆30年(1765年)、従兄の高晋が両江総督に任じられたため、職務上の衝突を避けるため召還され、戸部侍郎を代理で務めた。その後、乾隆30年から33年まで総管内務府大臣を務めた。また、乾隆32年には正白旗満洲副都統および吏部侍郎を代理で務めた。

両淮塩政時代の業績

高恒は両淮塩政在任中、揚州の痩西湖に五亭橋(別名:蓮花橋)を建設し、満月の夜には橋のアーチごとに月が映り込むような美しい景観を作り出した。また、虹橋(別名:紅橋、大虹橋)を再建し、橋上に亭(あずまや)を設けた(『揚州画舫録』巻10)。乾隆22年には痩西湖の新河開削を主導し、平山堂まで水路を通し、両岸に庭園を建設した。乾隆24年には揚州市河および護城河の浚渫工事を完了した。しかし、民間では「何も知らず、ただ財を貪ることのみが目的である」と非難されていた。

乾隆30年(1765年)には、劉茂吉(字:其暉)が『揚州両城図』を描き、高恒が記録を加えた(『揚州画舫録』巻9)。また、大明寺の平山堂を修復し、地理風水の専門家である欧陽洽(北宋の文学者欧陽脩の子孫)に方位や地勢の調査を依頼した(『揚州画舫録』巻16)。さらに、揚州北郊の名所「双峰雲棧」の環緑閣の棧道木橋の石壁に「松風水月」という文字を刻んだ(『揚州画舫録』巻16)。

両淮塩引事件と処刑

乾隆33年(1768年)、両淮塩政の尤抜世(兄は内務府正黄旗漢軍江蘇巡撫・安寧)が提出した奏折により「両淮塩引事件」が発覚した。高恒と普福(前任の両淮塩政)は、塩の専売権を私的に売却し、不正に利益を得た罪で処刑された。両淮塩運使の盧見曾もこの事件に連座した。

大学士の傅恒(乾隆帝の最初の皇后である孝賢純皇后の弟)は、高恒の命を助けるよう乾隆帝に嘆願したが、乾隆帝は「もし皇后の兄弟が罪を犯したならば、どうするべきか?」と答え、傅恒はそれ以上何も言えなかった。この事件では多くの関係者が処罰され、議政大臣であり吏部尚書兼九門提督(首都の防衛責任者)であった托恩多も、高恒や普福らの没収資産を不正に買い取ったため罷免された。

高恒の息子・高樸も、別件の「葉爾羌玉石事件」で処刑された。四男の高杞は、順貴人(乾隆帝の妃)の姉と結婚した。

学問・文化活動

高恒の父・高斌が両淮塩政であった時代、高恒は桐城派の学者・左廉(字:策頑、号:賁趾)に師事した。左廉の祖父は浙江武康県知県で、曾祖父は明朝の忠臣・左光斗であった(『桐城耆旧伝』巻6)。

高恒は、父・高斌の依頼で『固哉草亭集』(詩文集)を編集し、乾隆27年(1762年)に出版した。また、翰林院の学者・錢陳群は、高恒が山海関の監督を務めていた際に詩を贈った(『香樹斎集』)。

両江総督の尹継善も『題高鹾使望雲図』や『舟泊維陽贈高立斋鹾使』という詩を贈っており、高恒の文化活動は広く評価されていた(『尹文端公詩集』巻7、9)。また、高恒は囲碁愛好家であり、范西屏の『桃花泉弈譜』を刊行した。桃花泉は、かつて両淮巡塩御史の曹寅(『紅楼夢』の作者・曹雪芹の祖父)が詩を詠んだ地でもある(『楝亭詩鈔』巻5)。

小説家・夏敬渠とも交友があり、夏は高恒父子に多くの詩を贈っている(『浣玉轩集』巻4)。

高恒の旧邸宅

家族

参考文献

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