ランタン・リルン
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地理・地形

ランタン・ヒマールは、東側のジュガール・ヒマールとともに、東のスンコシ川流域と西のトリシュリ川流域の間に広がる山群を構成する。ランタン・リルンはその西部、ランタン川の北側にそびえ、ランタン・ヒマールの主峰となっている[4]。南西約50キロメートルには首都カトマンズが、北東には8000メートル峰のシシャパンマがある。
山頂のプロミネンスは1,534メートルで、プロミネンスが1,500メートル以上の「ウルトラ・プロミネント峰」に分類される[1]。西側のトリシュリ川流域からは水平距離約16キロメートルの間に約5,500メートル立ち上がっており、局地的な比高が大きい[5]。南面には長く未登であった大岩壁が発達する[4]。
周辺はランタン国立公園に含まれ、ランタン・リルンは同公園の最高峰である[6]。東から南東側にはリルン氷河が流下する。観測によれば同氷河の下流部では氷面低下が進んでおり、1996年から1999年までの平均低下量は年1–2メートルと推定された[7]。
登山史
1949年にイギリスの登山家ビル・ティルマン(H・W・ティルマン)とP・ロイドが登路を偵察した。その後、1952年にスイスの地質学者トニ・ハーゲン、1954年にオーストリア出身のペーター・アウフシュナイター、1958年に日本の深田久弥らが周辺を調査した[3]。
1961年、大阪市立大学山岳会隊が初めて本格的な登頂を試みた。しかし、標高約5,600メートルのリルン氷河上に設けた第3キャンプが大雪崩に襲われ、森本隊長、隊員の大島、シェルパ頭のギャルツェンの3人が死亡した[8]。日本大百科全書は、これを日本隊にとって最初のヒマラヤでの遭難死としている[3]。同山岳会はその後も遠征を重ねたが、ネパール政府による登山禁止期間もあり、初挑戦から登頂まで17年を要した[3]。
1978年10月24日、大阪市立大学山岳会とトリブバン大学の合同隊に参加した和田城志とペンバ・ツェリン・シェルパが南東面から山頂に達し、初登頂に成功した[9][3]。1988年1月3日には、ポーランド隊のミコワイ・チジェフスキ(Mikołaj Czyżewski)、カジミェシュ・キシュカ(Kazimierz Kiszka)、アダム・ポトチェク(Adam Potoczek)が冬季初登頂を果たした[10]。
1990年3月29日、南東稜から登頂を目指していた法政大学の8人隊で雪崩事故が発生した。第1キャンプへ向かっていた4人が標高約4,900メートルで雪崩に巻き込まれて約600メートル流され、二見典幸、桑名保秀、久本昌宏の3人が死亡した[11]。
2009年11月には、スロベニアの登山家トマシュ・フマルが南面の単独登攀中に遭難した。フマルは標高約6,300メートルから負傷を無線で伝えた後に連絡を絶ち、同月14日に標高約5,600メートルの南西面で遺体が収容された[12]。
長く未登であった東壁は、2024年10月25日から30日にかけて、チェコのマレク・ホレチェクとスロバキアのオンドレイ・フーセルカが初登攀した。2人は標高約4,700メートルから約2,500メートルの壁を6日間かけて登り、北東稜を経て登頂した。ルートは後に「オンドラズ・スター」(Ondra's Star)と命名された。翌31日の下降中、フーセルカは氷河のクレバスに転落して死亡した[2][13]。
氷雪・岩石崩壊
2015年
2015年4月25日、ゴルカ地震(Mw 7.9)によって、ランタン・リルンと周辺峰の標高6,000メートル以上の複数地点から氷雪・岩石が崩落し、ランタン谷へ大規模な岩石・氷雪崩が流下した。最初に崩落した氷の体積は約350万立方メートルで、途中で取り込んだ雪や岩石を含む総体積は約1,438万立方メートルに達したと推定されている。雪崩本体とそれが生じさせた爆風はランタン村の大部分と対岸の森林を破壊し、350人以上が死亡または行方不明となった[14]。研究では、地震前の異常に厚い積雪が雪崩の体積と流動性を増し、暖かい気温による融水が流下を促進したことが被害を拡大させたとされる[14]。
2026年
2026年8月26日、ランタン・リルン北側の標高約5,200メートル付近で氷河下部と岩盤が崩壊し、谷底まで約1,200メートル落下した。生じた氷雪・岩石雪崩はレンデ川沿いを土石流となって20キロメートル以上流下し、トリシュリ川水系で壊滅的な鉄砲水を引き起こした[15]。崩壊が発した地震波は当初地震とみなされたが、アメリカ地質調査所は氷と岩石の崩壊および土石流が生じさせたものと判断した[15]。衛星画像の解析では、崩落部の幅は約610メートル、山肌が削られた範囲は幅約910メートルと推定された[16]。
