ラ・ジャポネーズ
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本作品『ラ・ジャポネーズ』は、1876年4月の第2回印象派展に出品されて注目を集め[4]、展覧会の批評では衣裳表現の巧みさについて、多くの賛辞が寄せられている[5]。この会場では売れなかったが、同じ月の内に競売に掛けられ、2010フランという高値で落札された[4]。
しかし作者による本作品への評価は低く、1918年にモネのもとを訪れた画商が、大変な高値で『ラ・ジャポネーズ』が買われたという話を持ち出すと、モネは「がらくたさ。気まぐれにすぎんのだよ」と答えている[1][注 1]。またこの際にモネは本作執筆の経緯として、先行する作品『緑衣の女』(1866年)がサロンに出して高い評価を受けていたが、これと対になる作品の制作を勧められ、「素晴らしい衣装」を見せられて描いたものであること、モデルは最初の妻で、褐色の髪に金髪の鬘をかぶらせたことを説明している[1]。
モネの言葉通り、モデルはモネの最初の妻であるカミーユ・ドンシューとされる[7][2]。彼女は中々認められなかったモネを蔭から支えた存在でもあったが、彼の成功を見ることなく、本作品の発表から3年後、32歳で亡くなっている[7]。本作品と対になる『緑衣の女』のモデルもまたカミーユであった[8]。
モネの日本好きは広く知られた事実であり、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重などの浮世絵を231点所有していたことがわかっている。19世紀から20世紀にかけてのジャポニスムと日本の西洋化に、モネは大きな役割を果したと考えられる[9]。但し、モネが日本趣味を端的に表した作品は他になく、本作品が最初で最後のものとなっている[3]。
馬渕明子は、この種の着想はモネが先駆者であったわけではなく、先行して日本の着物を着た肖像画や日本の輸入品を並べた絵画が描かれていたこと[注 2]を指摘し、モネは二番煎じであることを承知の上で、これでもかと日本趣味の小道具を並べた本作品を描いた、としている[10]。勧められたとはいえ10年近くも経ってから『緑衣の女』の対となる作品を描いた理由については、『緑衣の女』に対するモネの「厳密には私は肖像画を描く意図はなく、当時のパリジェンヌの姿を描きたかったのです」という発言から、『緑衣の女』があくまでも風俗画であり、肖像画ではないことを確認するためではなかったか、と考察している。両者が共に衣裳の材質感に深く注意が払われている点にも着目し、『緑衣の女』の「見事な絹の艶」に合わせて『ラ・ジャポネーズ』の「刺繡の厚み」が描き出されているのではないか、としている[11]。
また、本作品はフランスに於ける日本美術の受容(ジャポニスム)としては初期の段階に属するもので、この頃は単純に、日本的なモチーフを作品に取り込むことのみが行われていた。のちにはそうした形の受容に留まらず、技法を日本美術から取り入れることも行われるようになっていった[9]。