リチャード・カンティロン
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| 生誕 |
1680年代[1] アイルランドトラリー |
|---|---|
| 死没 |
1734年 (54歳ごろ没) ロンドン |
| 時代 | 合理主義 |
| 地域 | 西洋思想 |
| 学派 | 重農主義 |
| 研究 | |
| 研究分野 | 政治経済学 |
| 概念 |
企業者兼リスク請負人, 貨幣経済学, 空間経済学, 人口成長論, 因果関係分析法 |
| 署名 |
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リチャード・カンティロン (Richard Cantillon (フランス語発音: [kɑ̃tijɔ̃])、1680年代 – 1734年5月) はアイルランド系フランス人の経済在学者で『商業試論』(Essai Sur La Nature Du Commerce En Général) を執筆した。この本はウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズが「政治経済学の揺籃」と評した[2]。カンティロンの生涯についてはほとんど情報がないが、若い年代で成功した銀行家兼商人として知られている。この成功の大部分は、政治および事業における人脈に由来し、彼の家族および初期の従業員のジェームズ・ブリッジスから得たものである。1710年代後半から1720年代初期にかけて、カンティロンはジョン・ローのミシシッピ会社に投機し、後に資金面で支援し、そこから巨万の富を獲得した。しかし、彼の成功は債務者の代償を招き、債務者らは彼の死の1734年まで訴訟、刑事告発、さらには殺害計画によって追及した。
『商業試論』はカンティロンの経済学への貢献として唯一現存するものである。1730年ごろに執筆され、手稿の形で広く流通したが、1755年まで活字出版物にはならなかった。彼の著作はGaspar Melchor de Jovellanosがおそらく1770年代ごろにスペイン語に翻訳し、政治経済学の必修本であると考えられた。重農主義および古典経済学派の初期の発展に大きな影響を与えたにもかかわらず、『商業試論』はジェヴォンズが19世紀後半に再発見するまで大多数の人に忘れ去られていた[3][4]。カンティロンは銀行家の経験の影響を受けており、特にローのミシシッピ会社が引き起こした投機バブルの影響がみられる。過去の経済学者ではウィリアム・ペティの影響が大いにみられる。
『商業試論』は経済学における最初の完全な論考書であり、学問に多大に貢献した。たとえば、因果関係分析法、貨幣理論、企業者兼リスク請負人の概念、および空間経済学の発展があげられる。また、初期の政治経済学の発展にも顕著な影響があり、たとえばアダム・スミス、ジャック・テュルゴー、ジャン=バティスト・セイ、フレデリック・バスティア、およびフランソワ・ケネーの著作があげられる[5]。
リチャード・カンティロンの生涯に関する情報はほとんどないが[6]、1680年代にアイルランドのケリー県で生まれたと考えられている[1][5]。彼はバリハイグ町の地主の息子であった[7]。
18世紀前半にカンティロンはフランスに移住し、市民権を得た[8]。1711年までにスペインでイギリスの軍事支払総監ジェームズ・ブリッジスに雇用され、スペイン継承戦争中にイギリス人捕虜への支払いを手配した[9]。その後もスペインに残って複数の事業と政治的コネクションを拡張し、1714年にパリに戻った[10]。次に銀行業界に関与し、いとこと働いた。いとこは当時、ファミリーバンクのパリ支店で主席通信員であった[11]。2年後、ブリッジスの金銭的支援を受けて、いとこを買収し、銀行の所有権を得た[12]。彼の家族[13]およびブリッジスから得た金融上および政治上の人脈をもとに、パリとロンドン間の送金が専門の、大成功した銀行家であることを証明した[14]。
当時ミシシッピ会社を通じて重商主義者のジョン・ローと交流するようになった[15]。ウィリアム・ポッターが1650年の小冊子『富の鍵』(The Key of Wealth) で提案した貨幣理論に基づいて[16]、ローは、通貨供給量の増加が未使用の土地および労働力の利用につながり、ひいては生産性の向上につながると提唱した[17]。1716年、フランス政府はローに総合銀行 (Banque Générale) の設立許可および北アメリカのフランス領植民地に対する実質的な開発独占権を与えた。これがミシシッピ会社と呼ばれ。見返りにローはフランス政府に対して、低金利での融資を約束した[18]。ローは、総合銀行が事実上独占的に紙幣を投資家に発行する権利を利用して、ミシシッピ銀行の株式を売却し金融的投機バブルを始めた[19]。
カンティロンは投機から莫大な財産を蓄積した。ミシシッピ・カンパニーの株を早期に購入し、後でより高い価格で売却したのである。その一方で、ローの「計画は不健全で失敗するに違いない」と信じていたと述べていた[20]。カンティロンの金融上の成功および影響力の増大はジョン・ローとの関係に摩擦を引き起こし、その後しばらくすると、ローはカンティロンが24時間以内にフランスを離れなければ投獄すると脅すようになった[21]。カンティロンの返答は「去るつもりはありません。ただし、あなたのシステムを成功させましょう」であった[21]。これを目的として、1718年にロー、カンティロン、および裕福な投機家であるジョセフ・ゲージは民間会社を設立し、北米の不動産のさらなる投機への資金提供をその中心とした[22]。
1719年カンティロンはパリからアムステルダムに向かい、1720年初頭に一時帰国した。パリを中心として融資をしていたが、ロンドンとアムステルダムにある非中心的債務を返済させた[23]。「ミシシッピ・バブル」の崩壊があったものの、高金利の借金を回収することができた[24]。 債務者のほとんどはバブル崩壊による金銭的損害を被り、彼を非難した。カンティロンは亡くなるまで、債務者が提起した無数の訴訟に巻き込まれ、複数の殺害計画と刑事告発につながった[25]。最終的には、ロンドンに移り住むが、同地で放火に遭い、焼死した[要出典]。
経済学への貢献
リチャード・カンティロンが様々な手稿を残した証拠はあるが、『商業試論』以外に現存するものはない[5][26]。1730年に執筆され[27]、1755年にフランスで出版された[28]。また、ヘンリー・ヒッグズによって1932年に英訳された[29]。証拠が示唆するところでは、『商業試論』は初期の経済学の発展に甚大な影響を与えたと考えられる。しかし、カンティロンの論考書は19世紀の多くの人に忘れ去られていた[4]。19世紀後半にウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズが再発見し、「政治経済学の揺籃」とである評価した[3][2]。それ以降ますます注目を集めて続けている。『商業試論』は、最初の完成した経済学の論考書であると考えられており[30]、「企業経済学の父」と呼ばれている[5][31]。
カンティロンの著作にもっとも影響を与えたのは英国の経済学者ウィリアム・ぺティと、彼の1662年の小冊子『税金に関する論文』(Treatise on Taxes) である[32]。ぺティは『商業試論』の土台の大部分を形成した[33]。ただし、Anthony Brewerはペティの影響が過大評価されていると主張している[34]ペティ以外に影響を与えた可能性があるのは、ジョン・ロック[35]、キケロ、リウィウス、大プリニウス、小プリニウス、チャールズ・ダヴェナント、エドモンド・ハレー、アイザック・ニュートン、セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン、ジャン・ボワザールなどである[36]。カンティロンがジョン・ローの投機的バブルに関与したことは貴重な経験であると証明されており、おそらく通貨供給の増加、価格、および生産間の関係に対する彼の洞察に重大な影響を与えたであろう[37]。
カンティロンは、『商業試論』で土地はすべての物産と商品の素材であり、労働はその形式であると述べ、生産物の価値は詰まるところ土地の価値に還元する、とフランソワ・ケネーに先立って重農主義を主張した。その一方で、現金の増加はそれに比例した一国の消費の増大をひき起こし、それがしだいに価格の高騰を生むと、乗数効果による貨幣流通量のコントロールの必要性についても言及し、それを元に重商主義の主張の一つである貿易差額主義を支持している。
カンティロンの主張は、価値論において重農主義的であるものの、本来的な価値と市場における価格との乖離にも着目し、その乖離を利潤機会として追求する存在として企業者の存在を定義している。そして、企業者と顧客が市場で「掛け合い」をすることで、市場における均衡状態が実現すると結論付けている。
方法論
『商業試論』は、先駆者とは全く異なる因果論的方法論を使用して執筆されている[5][38]。『商業試論』では「natural」(自然または当然の意) という語が各所に見られる。「natural」はカンティロンの論文では、経済行動とその根底にある(すなわちその原因たる)現象の間にある因果関係を示唆している[39]。経済学者のMurray Rothbardの評価では、単純なモデルで経済事象を分離した最初の理論家の1人であり、他の方法では制御不可能な変数が修正可能となった[40]。カンティロンはセテルス・パリブスの概念を『商業試論』の随所で頻繁に使用し、独立変数を無視しようとした[41]。さらに、カール・メンガーの方法論的個人主義と類似した方法論[42]を採用し、単純な観察から複雑な事象へ演繹したことでも評価されている[43]。
因果関係の方法論は、相対的に価値独立である、経済学アプローチにつながった。カンティロンは新しいアプローチにおいては、特定の経済行動または事象の功績には興味を示さず、むしろ関係の説明に焦点を当てた[44]。 これによりカンティロンは以前の重商主義著述家と比べて格段に、経済学を政治および倫理から区別することができるようになった[40]。このことは、カンティロンが単なる重商主義者か最初の反重商主義者であるか論争を引き起こしている[45]。その論争では、カンティロンがしばしば政府操作による貿易黒字と正貨の蓄積をプラスの経済刺激として紹介していることが挙げられる[46]。もう一方の主張では、カンティロンがある種の重商主義政策を支持している事例において実際は、重商主義政策の限界の可能性を明確に述べ、より中立的な分析を提供していたと述べている[47]。
貨幣理論
富の起源と市場での価格形成に関して、従来の重商主義者とカンティロンの違いは『商業試論』の早い段階で発生している[48]。カンティロンは富と通貨を区分しており、富そのものは「食、利便性、および生の喜びに他ならない」と考えている[49]。カンティロンは、土地および労働(生産費用)に基づき、価値に関する「本源的」理論を支持したが[50]、価値に関する主観的理論に言及していると考えられている[51]。カンティロンの主張では、市場価格は直ちには本源的価値によって決まるわけではなく、需要と供給によるとする[52]。彼の見解では、市場価格は、供給、すなわち特定の市場における特定の商品の量と需要、すなわち交換のために利用される通貨量との比較に由来するとされる[53]。彼は市場価格が商品の本源的価値に近づくと信じていることから、利益均一の原則―商品の市場価格の変化は利益の増減を反映し、供給量の変化につながる―を創出した可能性もある[54]。

『商業試論』では、ジョン・ロックの貨幣数量説を展開させ、相対的インフレーションと貨幣の流通速度に焦点を当てた[56]。カンティロンの提唱説では、インフレーションは徐々に発生し、新たな通貨流通はインフレーションに局地的な影響を与えるとされており、貨幣の非中立性の概念を実際に創出した[57]。さらに彼の仮定では、新たな流通貨幣を最初に受け取る人は、後で受け取る人の犠牲のうえでより高い生活水準を享受するとした[58]。相対的インフレーション、すなわちある経済において商品によって価格上昇の仕方が異なることは、今日ではカンティロン効果として知られている.[59][60]。カンティロンはまた、貨幣の流通速度 (特定の期間における交換量) の変化は価格に影響を与えるものの、通貨流通量の変化とは同程度ではないと考えた[61]。彼の信念では、貨幣供給は正貨のみからなるとする一方、貨幣代替物―すなわち銀行紙幣―の増加も、貯蔵正貨の流通速度を実際に加速させることにより、物価に影響を及ぼしうると認めている[62]。貨幣と貨幣代替物を区別するだけでなく、保有正貨に対応する銀行紙幣と保有正貨量を上回る量で流通する銀行紙幣―すなわち信用媒介物 (fiduciary media)―をも区別し、信用媒介物の量は国民の兌換可能性に対する信認によって厳格に制限されると提唱した[63]。彼の見解では、正貨保有が貨幣流通速度に与える下方圧力を緩和する際に、信用媒介物は有用な手段であるとする[64]。
重商主義者の信条である、通貨介入は永続的に貿易収支に望ましい影響を与えるという考え方に対応して、カンティロンは正貨流通のメカニズムを展開し、将来の国際貨幣均衡理論に通じる理論を考案した[65]。彼の提唱では、貨幣の流通量が多い国では物価が上昇し、それゆえ貨幣が相対的に欠乏している国より競争力が劣るとする[66]したがって、カンティロンの考えでは貨幣供給量の増加は、その出自にかかわらず、物価の上昇を引き起こし、それゆえあるその国の産業における競争力が、低物価の国と比較して、劣るとしている[67]しかし彼は、国際市場は均衡に収束するとは信じず、制すが正貨を貯蔵することで、物価上昇と競争力の低下を回避すると提唱した[65]。さらに、彼の提唱では貿易の望ましい均衡は、よりよい製品の提供と相対的競争力の保持によって維持されるとする[68]。カンティロンが望ましい貿易収支を好むことは、おそらく重商主義者がゼロ和ゲームを信奉することに由来しているであろう[69]ゼロ和ゲームは、他方の犠牲によって一方が利得を獲得する状態である
相対的に進歩した利子論も提唱された[70]。カンティロンの信条では、利息は借り手の資本需要および貸し手の損失への懸念に由来するとする。すなわち、債務者の債務不履行のリスクへの報酬として借り手が貸し手に支払わなければならない[71]。対価として、利息は投資資本に由来する稼得利益から支払われる[72]。従来は、利率は貨幣量に反比例して変動すると信じられていたが、カンティロンの仮定では、利率は貸付可能ファンド市場での需要と供給によって決定されるとした[73]―この洞察は通常デイヴィッド・ヒュームの功績であるとされる[74]。また、保存されている貨幣が利率に影響する一方、消費に利用される新しい貨幣は影響しない。したがって、カンティロンの利子論はジョン・メイナード・ケインズの流動性選好説に類似している[75]。
その他の貢献
伝統的には、「企業者」(entrepreneur) を造語し、その概念を発展させたと評価されている人物はジャン=バティスト・セイであるが、実際はカンティロンが『商業試論』で最初に紹介した[5][76]。カンティロンは社会を2つの主な階層に区分した。固定賃金稼得者と変動収入稼得者である[77]。企業者はカンティロンによれば、変動収入稼得者であり、製品の不確実な需要に提供するという投機的性質上、生産費用を支払うが不確実な収入を稼得する[78][79]。カンティロンは基礎を提供したものの、不確実性理論の発展には注力しなかった-20世紀になってようやくルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、フランク・ナイト、ジョン・メイナード・ケインズらが再検討した[80]。さらに、後年の理論では企業者は破壊要因であるとされるが、カンティロンの信条では、企業者は消費者選好を正確に予測することで均衡をもたらすとした[81]。
空間経済学は距離と地域を取り扱い、これらが輸送費用および地理的制約を通じて市場にどう影響するかを検討する。空間経済学は通常ドイツ人経済学者のヨハン・ハインリヒ・フォン・チューネンが始祖であるとされるが、カンティロンは1世紀近くも前に空間経済学を取り扱った[82]。カンティロンは空間経済学理論での成果をミクロ経済市場分析に統合し、輸送費用が工場、市場、および人口中心地にどう影響するか論述した―すなわち個人は低い輸送費用により繁栄する[83]。空間経済学の結論は3つの前提からなる。1つ目は、同量の原材料にかかる費用は輸送費用により必ず首都近くで高くなる。2つ目は、輸送費用は輸送手段により異なる(たとえば水上輸送は陸路輸送よりも安かった(現在も安い場合が多い))。3つ目は、輸送困難な大型商品は必ず、生産地に近いほど安い[84]。たとえば、カンティロンの信条では市場の形成は、商人および村民にとっての時間および輸送面でのコストが低くなるように行われるとされる[85]。同様にカンティロンの仮定では都市の位置は、居住する資産家の富および彼らの輸送費用への余裕に大きく影響を与えるとする―裕福な資産家は自身の不動産から離れて住む傾向があり、それは輸送費用を負担する余裕があるためである[86]。『商業試論』では空間経済学理論を利用することで、市場がその地域を占有する理由と費用が市場により異なる理由を説明している[87]。

これら以外にも、人口成長論に注力した。ウィリアム・ぺティーの信条ではかなりの量の未使用の土地の経済機会が常に存在し経済成長を支えるとした一方、カンティロンの理論では経済機会が存在する場合に限り人口が成長するとした[88]。具体的にはカンティロンは、人口サイズを決定する3つの要素を紹介した。自然資源、テクノロジー、および文化である[89]。したがって、この3要素が許す限りにおいてのみ人口は成長する[90]。さらに、カンティロンの人口論はマルサスより現代的である。カンティロンは人口成長に影響する要素として、かなり広いカテゴリーを認識しており、たとえば社会の工業化が進むと人口成長がゼロになる傾向があげられる[91]。