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シャフレ・レイ

古代から中世にかけてイラン高原中央部にあった都。 From Wikipedia, the free encyclopedia

シャフレ・レイ(ペルシア語: شهر رِیْ, ラテン文字転写: Shahr-e Rey[a])は、テヘラン大都市圏の南端にある地区の名称である。この地区には紀元前から人が集住し「ラガー Raghā」という都市が形成されていた[1]。7世紀前半にアラブ=ムスリムの支配下に入り、8世紀から11世紀までジバール地方東部の軍事・行政の中心として重要な役割を果たした[1][2]。イスラーム期にはアラビア語で「ライイ al-Rayy」と呼ばれた[1]。ペルシア語で「レイ Rey」とも呼ばれる[2]。

概要 シャフレ・レイ شهر رِیْ, 位置 ...
シャフレ・レイ
شهر رِیْ
位置
シャフレ・レイの位置(イラン内)
シャフレ・レイ
シャフレ・レイ
シャフレ・レイ (イラン)
シャフレ・レイの位置(中東内)
シャフレ・レイ
シャフレ・レイ
シャフレ・レイ (中東)
座標 : 北緯35度35分 東経51度26分
行政
国 イランの旗 イラン
 州 テヘラン州
 市 シャフレ・レイ
その他
等時帯 イラン標準時 (UTC+3:30)
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カージャール朝がチェシュメイエ・アリーの丘に刻んだファトフアリー・シャーを讃えるレリーフ

11世紀に戦火により灰燼に帰したのち、13世紀のモンゴルの侵攻により都市としては消滅した[1][3]。その後、シーア派の聖廟参詣が盛んになると、そのひとつであるシャー・アブドルアズィーム廟(英語版)を中心に村が形成された[1]。この村もレイと呼ばれたが、近世以前のラガーから続く歴史的都市とは続いておらず、断絶がある。他方で、レイの北方10キロメートルのところにあるテヘランが15世紀ごろから徐々に発展しはじめる[4]。20世紀にはテヘランの都市圏がレイを取り込みんだが、聖廟を中心とした独特の下町風情がある地区として存続している[2]。シャフレ・レイはまた、アラビア語を話す国からの移住者が多い地区としても知られている[5]。

地理

イラン中央部の町と交通路を示す地図(1948年ごろ)

古代都市ラガーの遺跡、すなわちイスラーム期にはライイと呼ばれた町は、テヘランの中心部から南南東10キロメートルの場所に位置する[1][3]。テヘランやキャラジなどの町と同じように、アルボルズ山脈の南面の尾根が伸びた先の平野の中にある[1]。遺跡のすぐ南にシャー・アブドルアズィームのハラム[b]があり[1]、東へ数百メートルのところにビービーシャフルバーヌー廟(英語版)がある[3]。

ロシアの東洋学者ミノールスキー(ロシア語版)によると、この町の地理的な重要性は、東西に連なるアルボルズ山脈と南方にある沙漠地帯の間にある肥沃な地帯に位置していたことにある[1]。この地帯は、記録が残されていないほど古い時代からイランの東西を結ぶ交通路として利用されてきた[1]。さらに、カスピ海南岸の各地から山脈を越えて南方へ向かういくつかの街道は、この地で一本に収束する[1]。

歴史

現存する『アヴェスター』には「ラガー Raghā」がアフラ・マズダーにより創建された12番目の聖所であるという言及がある(Wīdēwdāt, i, 15)[1]。ベヒストゥン碑文においても、楔形文字により「ラガー」の名が2箇所で言及されている(Behistun 2, 10-18; 3, 1-10)[1]。その内容によると、紀元前6世紀には「ラガー」はメディア王国の一州であったようである[1]。聖書外典にも『トビト記』1:14、『ユディト記』1:15 に「ラガー」に似る町の名前の言及がある[1]。

アッリアノスの『アレクサンドロス東征記』には、アレクサンドロス大王がダレイオス三世を追って、エクバタナから11日かけて「ラガエ Rhagae」に行軍した旨の記載がある(Arrian, 3, 20, 2)[1]。ストラボンの『地理誌』によるとセレウコス1世ニカトルが「ラガエ Rhagae」を、マケドニアの生まれ故郷の名前にちなんで「エウローポス Eurōpos」と改名して再建したとのことである(Strabo 11:9:1; 11:13:6)[1][c]。さまざまな名前のバリエーションがあるが、これらがすべて、レイのことを指すとみられる[1]。

サーサーン朝期、レイにはネストリウス派教会の司教座が置かれていたことを示す文献記録がある[1]。ただし、発掘調査によると明確にサーサーン朝期のものと言える遺跡・遺物は少ない[3]。641年には皇帝ヤズデギルド三世がレイからホラーサーンに逃げる直前、ここで最後の演説をしたとされる[1]。レイの東にある山の尾根には、ヤズデギルドの娘[d]の霊廟とされる場所があり、男性の立ち入りが禁止されている[1]。

タッペイエ・ミールの丘にあるアータシュカデ(拝火教寺院)址

アラブ=ムスリムがレイを征服したのは640年ごろであると推定され、その支配は徐々に強化されていった[1]。タバリーの歴史書によると、642年にレイでゾロアスター教徒の「反乱」(ゾロアスター教徒の側から見れば「抵抗」)が起き、サアド・イブン・アビー・ワッカースの率いる軍団が、遅くとも646年にはこれを鎮圧した[1][3]。この「反乱」はミフラーン家のスィヤーヴァフシュ(英語版)[e]により統率されていたことから、レイはサーサーン王朝からミフラーン家に与えられていた封土であったようである[1]。タバリーによると、反乱鎮圧に伴いヌアイム・イブン・ムッカリンという名の武将がレイの城壁を崩し、戦後にその修復をファッルハーン・イブン・ザイナビー・イブン・クーラという者に命じたという[1]。ところが、現代における複数次の発掘調査によっても、そのような破壊と修復の痕跡のある遺構は、考古学的に発見されていない[3]。破壊及び修復されたのは城壁ではなく、ミールの丘にあるアータシュカデ(拝火神殿)址の可能性はある[3]。

シリアが本拠地であったウマイヤ朝にとっても、イラクが本拠地であったアッバース朝にとっても、レイは東方の版図を支配するための重要な拠点であった[3]。のちに「マフディー」と呼ばれるアッバース朝のムハンマド・ブン・マンスールは、若い頃にホラーサーンやタバリスターンで発生した反乱への討伐で軍功を立てたが、この頃に軍事拠点として用いたのがレイだった[3][6]。マフディーはレイを、自分の名をとって「ムハンマディーヤ」(ムハンマドの町)と呼んだ[3]。マフディーがハイズラーン・ビント・アター(英語版)と恋に落ち、ムーサーとハールーンの2人の息子を得たのもこのレイの町においてであった[6]。

考古学的にもアッバース朝時代初期に防塁で囲まれた「行政地区」の大幅拡張が確認できる[3]。イスラーム時代、レイは宗教的、文化的にも重要な拠点であった。9世紀から10世紀前半にかけて、レイは実質的に、神学上はムルジア派とみなされるフサイン・ナッジャールのセクトが大勢を占め、法学上はハナフィー法学派の規範が適用されていた[7]:29。当時レイにはハナフィー法学派の強固なコミュニティが存在していた[7]:29。ハナフィー法学派は土着の慣習やラーイを認め、明確なドクトリンを持たない。9世紀中葉に明確なドクトリンを持つシャーフィイー法学派がレイを含むイランの各町に浸透し始め、その教勢は11世紀に明らかにハナフィー法学派をしのいだ[7]:27。

西暦860年には、この町でアブー・バクル・ラーズィー(医学・哲学者のラーゼス)が生誕している。ラーズィーは医学や哲学の分野で業績を残したペルシア人であるが、理性主義者であったため専制に反対し、彼の不可知論は激しい論争を引き起こした。彼の通称「(アッ=)ラーズィー」は当地の地名を基にしたニスバである。アッバース朝時代を通して、この町は反体制派の巣窟となった。ムゥタズィラ学派にシーア派、その他にも多くのセクトが、この町に避難場所を見出した。

10世紀の終わり頃には当地にブワイフ朝の首都が置かれた。しかし1042年にはセルジューク朝の手に落ちた。セルジューク朝の創始者であり初代スルターン、トゥグリル・ベグはこの地で生まれ、没した後、同地に霊廟塔が建てられた。1149年には詩人、哲学者、神学者のファフルッディーン・ラーズィー(英語版、ペルシア語版)が当地にて生まれた。

紀元前以来の古都、レイは1220年のモンゴルの西アジア侵入の際、徹底的に破壊され、それ以降と断絶がある。

13世紀にヤークートがレイの廃墟を訪れている[7]:37。ヤークートは当地の住民が「レイが廃墟となったのはハナフィー派とシャーフィイー派の党派争いが原因だ」と語っていると記述している[7]:37。

シーア派の巡礼地

1924年ごろのシャフレ・レイの空撮写真。町の中心にシャー・アブドルアズィームのハラム(英語版)の中核モスクが見える。

アッバース朝時代の9世紀、十二イマーム・シーア派にとって重要な出来事がレイで起きた[8]。10世紀の歴史家ナジャーシー(ペルシア語版)は、「アブドルアズィーム(ペルシア語版)という人物がレイに移り住み、当地で亡くなった[8]。死後の彼の衣服の懐中から自分の出自を記したメモが出てきて、それによると、彼はハサン・ブン・アリーの5世孫であった[8]。アブドルアズィームは、素性を隠してアッバース朝政府の監視の目を逃れながら預言者の一族のメッセージを人々に伝えるために長い旅をしていた[8]。」といった内容の出来事を伝える[8][9]

アブドルアズィーム廟のミナレット

アブドルアズィームはリンゴの木の下に葬られた[8]。その墓には、被葬者の没した直後から現代に至るまで、複数次にわたって、時のシーア派王権による寄進がなされた[8]。セルジューク朝のワズィール、マジドッディーン・バラーワスターニーはシーア派を信奉しており、アブドルアズィーム廟を保全した[8]。サファヴィー朝のタフマースブ1世は、アブドルアズィーム廟を大幅に拡張した[8]。現存する霊廟のイーワーン建築はこのときに建築されたものである[8]。ガージャール朝のナーセロッディーン・シャーは、タフマースブが拡張したモスクを美麗に装飾させた[8]。

アリー・ハーディーはレイから来た旅人に、アブドルアズィームの墓にお参りするのはイマーム・フサインの墓にお参りするのと同等のご利益があると言ったとされる[8]。ところで、生前のアブドルアズィームの旅の目的地がレイであった理由は、一説によると、夢のお告げでここにムーサー・カーゼムの息子ハムザの墓があることがわかったからである[8]。ハムザはアリー・レザーの教友でサファヴィー朝王家の父祖とされる人物であり民衆に人気がある。マアムーンに殺されてアリー・レザーに葬られたが埋葬地が不明であり、イラン各地にハムザの墓がある。アブドルアズィームはレイにおいて、何の変哲もない墓石の近くで断食や礼拝に務める敬虔な生活を送っていたが、その墓こそハムザの墓であった、と信じられている[8]。アブドルアズィーム廟にはハムザ廟も隣接している。

このように成立したシャー・アブドルアズィームのハラム(英語版)の近くには、有名人が数多く眠るイブン・バーブワイヒ墓地(ペルシア語版)や、セルジューク朝の君主トゥグリル・ベクの霊廟塔(英語版)も所在する。

現代のシャフレ・レイは、テヘラン州の一シャフレスターンである。特に、隣国イラクからサッダーム・フセインの政権掌握後、イランに移住してきたアラブ系の人々が多く住み、リトル・アラブを形成している[5]。

考古

チェシュメイエ・アリーの丘

シャフレ・レイにおける西洋人による遺跡調査は、19世紀前半から行われてきたが、本格的な学術調査は1930年代のヴィニエ(フランス語版)によるものが最初である[3]。1934年から1936年にかけて、アメリカのシュミット(英語版)により学術的な発掘調査が行われた[3]。

現代の行政区分でいうシャフレ・レイ地区では、チェシュメイエ・アリーとクーヘ・ソルソラという2つの丘から紀元前5500年から5200年前(新石器時代)のものと推定される卵殻状の土器(甕)の欠片等が見つかっており、2010年時点で最古の、この地における人類集住の痕跡である[3]。チェシュメイエ・アリーの丘では、この地層の上に泥を焼成したレンガで築かれた構造物の遺構がある[3]。レンガは規格化されておりバルフのバクトラ遺跡で見られるレンガと同じものとみなせる[3]。時期的にはパルティア(アルサケス朝)の構造物であり、シュミットの調査によると内部から、ヴォノネス2世からミトラダテス2世まで、紀元前2世紀後半から後1世紀の王の名が刻まれた銅貨が発掘された[3]。

チェシュメイエ・アリーとクーヘ・ソルソラの2つの丘の周りは防塁で囲われており、最も古いものはパルティア時代の防塁である[3]。防塁はサーサーン朝でも造営され、内側は「行政地区」(governmental quarter; šahrestān)として機能した[3]。陶器などの出土品に基づくと「行政地区」は、アッバース朝~セルジューク朝時代まで使用され続けたことが確認できる[3]。セルジューク朝の地層の上には 2 cm の火災の痕跡が積もり[3]、「レイは度重なるモンゴルの侵攻で荒廃し、最終的にティムールにより破壊された」という「書かれた歴史」により再構築される歴史像と矛盾しない。

註釈

  1. ペルシア文字に付したシャクルは、20世紀後半からイランで用いられるようになったスタイルで付してある。すなわち、/ey/ をキャスレ、スクーンの順で打っている。ファトヘ、スクーンの順で打つ伝統的なスタイルもある。発音は同じ。
  2. シャー・アブドルアズィーム廟を中心に、ハムザ・イブン・アリーレザー廟なども含む宗教複合。
  3. その後「エウローポス」は、アルシャク朝(パルティア)により、さらに「アルサキア Arsakia」に改名される[1]。ただし、ローリンソンによると、「エウローポス」及び「アルサキア」はレイではなく隣のヴァラーミーンだった可能性もある[1]。
  4. ビービー・シャフルバーヌー(英語版)。イマーム・フサインと結婚し、イマーム・サッジャードの生母であるというシーア派の伝説がある[1]。
  5. スィヤーヴァフシュ(Siāwaḵš b. Mehrān b. Bahrām Čōbin)は、バフラーム・チョービンの孫にあたる[3]。

出典

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