レイナルド・ゴルノ
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レイナルド・ゴルノ(1952年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 選手情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| フルネーム | Reinaldo Berto Gorno | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 国籍 |
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| 種目 | 長距離走、マラソン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 所属 | Capital Federal | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 生年月日 | 1918年6月18日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 生誕地 | アルゼンチン・コリエンテス州ジャペジュー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 没年月日 | 1994年4月10日(75歳没) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 死没地 | アルゼンチン・ブエノスアイレス特別区 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 身長 | 170cm | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 体重 | 63kg | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 自己ベスト | マラソン:2時間20分28秒(1955年) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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レイナルド・ゴルノ(Reinaldo Berto Gorno、1918年6月18日 - 1994年4月10日)は、アルゼンチンの陸上競技選手である。彼は、1952年に開催された1952年ヘルシンキオリンピックのマラソンで銀メダルを獲得した。
ゴルノは長距離走の選手として活躍し、南アメリカ陸上競技選手権大会では1945年にクロスカントリーで金メダルを獲得したのを始め、銀メダル5個、銅メダル1個を獲得した実績を持っていた[1]。ゴルノがオリンピックに出場したのは、34歳のときだった。彼はヘルシンキオリンピックのマラソンアルゼンチン代表3人のうちの1人として、ヘルシンキに赴いた。
ヘルシンキオリンピックのマラソンは、32の国から66人の選手が出場して、1952年7月27日に実施された。レースがスタートしたのは午後3時28分で、当日はかなり涼しい天気だった[2]。事前の予想では、オリンピック直前の6月14日に当時のマラソン世界最高2時間20分42秒を記録していたイギリス代表のジム・ピーターズが金メダルの最有力候補だった[2]。実際のレースでは、「人間機関車」の愛称で知られたチェコスロバキア代表のエミール・ザトペックが、10000メートル競走、5000メートル競走に続いて圧倒的な強さを見せて2時間23分3秒2の記録で金メダルを獲得し、オリンピック長距離走メダル三冠を達成した。ゴルノはザトペックに2分半以上の大差をつけられたが、2時間25分35秒の記録で2位に入って銀メダル獲得を果たした[2]。
その他の主要な大会では、1951年にブエノスアイレスで開催されたパンアメリカンゲームズのマラソンで、1948年ロンドンオリンピックのマラソン金メダリスト、デルフォ・カブレラに次いで2位に入っている[3]。1954年に開催された第9回朝日マラソン(当時は神奈川県で開催)では、大会として初めて招待された外国人選手の一人として出場し、初めて優勝した[4]。彼は1950年代を代表するマラソン選手の1人として、1952年、1954年、1955年の合計3回男子マラソンの世界トップ10に名を連ねている[5]。
主要大会での成績
| 年 | 大会 | 場所 | 種目 | 結果 | 記録 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1941 | 南アメリカ陸上競技選手権 | ブエノスアイレス(アルゼンチン) | 5000m | 2位 | 15分12秒1 |
| 1941 | 南アメリカ陸上競技選手権 | ブエノスアイレス(アルゼンチン) | 10000m | 2位 | 31分39秒6 |
| 1945 | 南アメリカ陸上競技選手権 | モンテビデオ(ウルグアイ) | 5000m | 3位 | 15分24秒2 |
| 1945 | 南アメリカ陸上競技選手権 | モンテビデオ(ウルグアイ) | 10000m | 2位 | 32分38秒2 |
| 1945 | 南アメリカ陸上競技選手権 | モンテビデオ(ウルグアイ) | クロスカントリー | 1位 | 44分12秒4 |
| 1947 | 南アメリカ陸上競技選手権 | リオデジャネイロ(ブラジル) | クロスカントリー | 2位 | 38分39秒0 |
| 1951 | パンアメリカンゲームズ | ブエノスアイレス(アルゼンチン) | マラソン | 2位 | 2時間45分00秒 |
| 1952 | 南アメリカ陸上競技選手権 | ブエノスアイレス(アルゼンチン) | 5000m | 2位 | 15分5秒5 |
| 1952 | ヘルシンキオリンピック | ヘルシンキ(フィンランド) | マラソン | 2位 | 2時間25分35秒 |
| 1954 | 朝日マラソン | 神奈川県(日本) | マラソン | 1位 | 2時間24分55秒 |
| 1955 | エンスヘデマラソン | エンスヘデ(オランダ) | マラソン | 1位 | 2時間26分33秒[6] |