ジュマ・イカンガー
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高校卒業後、タンザニア陸軍に入隊。陸上選手としての目覚ましい活躍で士官に抜擢される(最終階級は少佐)。1982年9月、オーストラリアで開催されたコモンウェルスゲームズ(英連邦大会)で国際大会にデビューし、アフリカ人として初めて2時間10分の壁を破る2時間9分30秒のタイムで2位となる。1983年12月4日の福岡国際マラソンで瀬古利彦とゴール前の最終コーナーまで競り合い、優勝は逃したものの、1位の瀬古とわずか3秒差の2時間8分55秒という好タイムで2位となって当時の世界最高記録保持者・アメリカのサラザールらに勝利し一気に注目された。このとき、アフリカの星との異名も奉られた。1984年に東京国際マラソンで優勝し、ロス五輪でもダークホース視された。ロス五輪のマラソンでは、終盤のペースアップについていけなかったものの、6位入賞を果たした(ゴール前の直線で、キャステラに交わされての6位であった)。1985年は不調であったが、1986年の東京国際マラソンでは、カルロス・ロペス、中山竹通、ベライン・デンシモ、アベベ・メコネンといった強力メンバーの中、自己ベストとなる2時間8分10秒で優勝した。同年は12月の福岡国際マラソンも制し、2つの優勝が評価され、この年のマラソン世界ランク1位に輝いた。その後、1987年のローマ世界選手権6位、1988年のソウル五輪7位(今度はキャステラにゴール前交わされなかった)と、メダルには届かないものの、安定して大レースでも入賞を重ねた。1989年にはニューヨークシティマラソンで、生涯自己ベストとなる2時間8分1秒の好タイムで優勝した。当時の大会記録で、その後12年間破られることのない好タイムであった。このレースをピークに徐々に衰え、マラソンでの優勝も無くなったが、五輪、世界選手権にも出場し続け、長く活躍した。日本での活躍も多く、「タンザニアの黒豹」と呼ばれた。人の後ろを走るスタイルを好まず、常に先頭で引っ張るレース展開が特徴で、日本でも外国人選手の中でお茶の間にも有名なマラソン選手の一人であり人気もあった。イカンガー自身も日本が好きであり、1線級でなくなった後も、1993年から1996年まで毎年福岡国際マラソンに参加している。身長163cmと小柄ながら大きなストライドで走り、スピード感にあふれ、その爆発的なスピードは“タンザニア式ジェット走法”と評された。現在は指導者として若手の育成にあたっている。
2019年、タンザニアのスポーツ委員会理事として、第15回JICA理事長賞の表彰を受けた[1]。
主な戦績
- コモンウェルスゲームズ 2位(1982年)
- ロサンゼルスオリンピック 6位(1984年)
- 東京国際 優勝(1984、1986年)、2位(1988年)
- メルボルン 優勝(1983、1984年)
- 福岡国際 優勝(1986年)、2位(1983年)
- 北京国際 優勝(1987年)
- ローマ世界陸上 6位(1987年)
- ソウルオリンピック 7位(1988年)
- ニューヨーク 優勝(1989年)
- ボストン 2位(1988-1990年)