レオナルド・ダ・シウヴァ・モウラ
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| 名前 | ||||||
| 本名 |
レオナルド・ダ・シウヴァ・モウラ Leonardo da Silva Moura | |||||
| 愛称 | Leo | |||||
| ラテン文字 | LÉO MOURA | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1978年10月23日(46歳) | |||||
| 出身地 | ニテロイ | |||||
| 身長 | 177cm | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | DF, MF (右SB / 右SH) | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| ユース | ||||||
| -1998 |
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| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1997-1999 |
| 0 | (0) | |||
| 1999 |
| 0 | (0) | |||
| 1999-2000 |
| 21 | (0) | |||
| 2000-2001 |
| 29 | (12) | |||
| 2001 |
| 24 | (1) | |||
| 2002 |
| 0 | (0) | |||
| 2002 |
| 9 | (0) | |||
| 2003 |
| 22 | (0) | |||
| 2004 |
| 41 | (0) | |||
| 2005 |
| 8 | (0) | |||
| 2005-2015 |
| 312 | (27) | |||
| 2015 |
| 9 | (2) | |||
| 2015 |
| 9 | (2) | |||
| 2016 |
| 0 | (0) | |||
| 2016 |
| 33 | (3) | |||
| 2017-2020 |
| 54 | (3) | |||
| 2020 |
| 5 | (0) | |||
| 代表歴 | ||||||
| 2008 |
| 1 | (0) | |||
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レオナルド・ダ・シウヴァ・モウラ(Leonardo da Silva Moura、1978年10月23日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ州ニテロイ出身の元同国代表サッカー選手。ボタフォゴFR、CRヴァスコ・ダ・ガマ、フルミネンセFC、そしてCRフラメンゴとカンピオナート・カリオカ (リオデジャネイロ州選手権) のビッグ4全てでプレーした数少ない選手の1人。
初期
リニャレスECの下部組織でキャリアを始め、MFとしてプレーをしていた。その後、リオのボタフォゴFRの下部組織に入団し、1998年にトップチームデビューを果たした。ベルギーのKFCジェルミナル・ベールスホットで1シーズン過ごし、オランダの2部に属するADOデン・ハーグに入団すると右SBに転向し、好調なシーズンを送った[1]。
ブラジル復帰
国外で2シーズンプレーした後の2001年に古巣のボタフォゴへ復帰。ここでは再びMFとしてプレーすることを望んだが、負傷によりポジションを失った。回復後は、1999年にセザール・プラテスが去ってからの悩みの種だった右SBのポジション問題を解決させるほどプレーを見せていたが、ライバルのCRヴァスコ・ダ・ガマへまさかの移籍をした[2]。
ヴァスコでは、ロマーリオ, エウレルと相性が良く攻撃陣を形成した。ここで成功しているにもかかわらず、全国選手権を前にして同年SEパルメイラスへと移籍をしたが、クラブは2部へ降格した[3]。
2003年にサンパウロFCへ加入した際、過去に左SBとして活躍したレオナルドの存在があったため、レオナルド・モウラへ登録名を変更した。ここでのプレーは精彩を欠いたため、リオデジャネイロに戻りフルミネンセFCと契約した[4]。
フルミネンセでは、再び同僚となったロマーリオや後に別のチームでも再会することになるジュニオール・セザールらと共にプレーをした。モウラ自身もポテンシャルを披露し、ファンのお気に入りの選手になった[5]が、翌2005年にポルトガルのSCブラガへ去っていった[6][7]。
フラメンゴ
2005年にCRフラメンゴへ加入するも、チームの主だったライバル全てに所属した"渡り鳥プレイヤー"として知られていたため、当初ファンから疑いの目を向けられていた。しかし、熟練したパスとドリブルからすぐさまキープレーヤーとしての地位を確立し、降格の危機から回避するのに貢献した[8]。
2006年には自身初タイトルとなるコパ・ド・ブラジルを獲得した。この勝利からチームは4年ぶりとなるコパ・リベルタドーレス出場権を獲得し、モウラはレギュラーとしての座を決定的なものとしていった。左SBのフアン・マルドナード・ハイメスとの素晴らしい両サイドは、2010年にフアンがクラブを去るまで続きサポーターから寵愛を受けた。また、多才なMFレナト・アブレウ, GKブルーノ・フェルナンデス・ジ・ソウザと並んでモウラはチームのハイライトの1つだった[9]。2007年リベルタドーレスでは不振だったものの、カンピオナート・カリオカ (リオデジャネイロ州選手権) では優勝し、個人としてはプレミオ・クラッキ・ド・ブラジレイロンの右SB部門だけではなくプラカール誌が選ぶボーラ・ジ・プラッタ最優秀右SB部門にも輝いた。
2008年にクラブと契約延長を結ぶと、同年アイルランドとの親善試合にブラジル代表として招集された。クラブレベルでは、タッサ・グアナバラと州選手権のタイトルを獲得すると再びボーラ・ジ・プラッタに選ばれた[10]。
2009年は州選手権3連覇し、さらにクラブ通算6度目となる全国選手権のタイトルを獲得と、例年以上に成功した思い出に残る年となった[要出典]。しかし、翌2010年は波乱の年となった。チームの主将ブルーノが殺人容疑にかけられたため、そのあとを引き継いだ[11]。その動揺のせいか、年間を通して降格圏スレスレを行き来していたが、最終的にコパ・スダメリカーナ予選圏内まで順位を上げた[12]。
モウラがSCインテルナシオナルへの移籍をほのめかしていたため、フラメンゴでの時間は2011年に終わるかと思われていた[13]。長年パートナーを組み守備陣を支えたフアンが出ていったため、モウラやチームのため左SBの補強の必要があった。それにもかかわらず、2002 FIFAワールドカップの優勝者にして2005年のバロンドール受賞者であるブラジル代表のロナウジーニョが加入により主将の座がロナウジーニョへと渡たり、主将としての期間は終わった[14]。2011年にタッサ・グアナバラとタッサ・リオの両大会に優勝と前期で素晴らしい成功を収めたため、全国選手権の優勝候補に乗りを上げた。年間を通じて無敗のまま連勝を重ね、コパ・ド・ブラジル準々決勝のセアラーSCに敗れるも、リーグ戦は16節まで無敗だった。17節のアウェーで行われたアトレチコ・ゴイアニエンセ戦でついに敗戦し、モウラはこの試合をMFとしてプレーしていた[15]。後期に突入なっても勢いを取り戻すことが出来ず敗戦を重ね、結果リベルタドーレス出場圏内に終わった。
クラブとの契約最終年になる2012年も変わらずレギュラーとしてプレーし、ロナウジーニョ、チアゴ・ネーヴィスと共に存在感あるプレーを見せた[要出典]。チームで4度目のリベルタドーレスでは、第1戦ボリビアのレアル・ポトシ戦でキャリアの中で珍しくヘディングゴールを決め[16][17]、グループステージ進出に貢献するも突破は出来ず敗退した。
フォートローダーデイル・ストライカーズ
2015年、長年所属したフラメンゴを退団。NASLに参加しロナウドが共同オーナーを務めるフォートローダーデイル・ストライカーズに加入した。4月11日のジャクソンヴィル・アーマダFC戦で移籍後初ゴールを決めた[18]。
FCゴア
2015年、インドのFCゴアに移籍した。