レベッカ・シェイファー
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レベッカ・シェイファー(Rebecca Lucile Schaeffer、1967年11月6日 - 1989年7月18日)はアメリカ合衆国の女優。オレゴン州ユージーン出身[1]。
女優として躍進する矢先、21歳の若さでストーカーによって命を絶たれた。
この事件がきっかけとなりロサンゼルスでは「ストーカー防止法制定」へ至り、のちにマドンナらストーカー被害に悩む多くのタレントを救う事となった。
なお、シェイファー殺害事件から30年いじょう経過した現在も全米へあたえた衝撃は大きく、2019年には、ABCのニュース番組『20/20』で特集番組が組まれるなど、教訓をふまえてメディアでも度々取りあげられている[2] 。
生涯
児童心理学者の父親と、教師である母親の間にひとりっ子として生まれ、ポートランドで育つ[3][4]。 熱心なユダヤ教徒だったため、当初はラビになることを目指していた。
14歳のころタレント・エージェントによってスカウトされた彼女は、デパートのチラシやテレビのCMモデル、10代の女性をターゲットにしたファッション誌『セブンティーン』や、大衆誌『ピープル』にて表紙を飾るなどのタレント活動と並行し[5]、16歳で俳優を夢みてオレゴン州からニューヨークへ移住する。
170センチという長身であったため、活動初期ではこれを理由にオファーを断られることも多かった。また当時の基準では、ファッションモデルとして活動するには、5センチほど身長が足りなかったため、モデルをメインとした活動から演劇の世界を志すほうへ気持ちの変化が現れたのは、これもひとつの理由だと言われた[6]。
1985年にはテレビ・ドラマや映画のエキストラとして俳優の仕事を開始。
“この少女と契約したいと強く思いました、彼女は本当に、本当に特別な少女でした”-ナネット・トラウトマン(シェイファーの初期エージェント)
60年代から放映が続く長寿ドラマ、『ワン・ライフ・トゥ・リヴ』に半年の出演をはたし、HIV感染症の子供たちを支援する団体、「サーズデイズ・チャイルド」の広報も担当した[8]。
1986年、ワーナー・ブラザース制作、CBSテレビで放映された シチュエーション・コメディ、『マイ・シスター・サム(日本未公開)』にて妹役へ抜擢され、姉を演じるパム・ドーバーとのダブル主演にて注目をあつめる。撮影スタジオへ、ファンからのぬいぐるみや贈り物が届くことを、とても楽しみにしていた。
この番組は1988年のシーズン2まで人気を集め、ケーブルテレビでくりかえし再放送される番組となったが、これが女優としての転機だった。
生前最後の作品
1989年には、『チャーリーズ・エンジェル』などで知られるジャクリーン・ビセットが主演、ロジャー・コーマンとも関係が深かったポール・バーテルが監督を務めたドラマ、『シーンズ・フロム・ザ・クラス・ストラッグル・イン・ビバリーヒルズ(日本未公開)』へ、主人公の娘役でレギュラー出演。
ターナー・クラシック・ムービーズの記事によると、『シーンズ・フロム・ザ・クラス・ストラッグル・イン・ビバリーヒルズ』は、あえて視聴者を挑発、あるいは逆撫でする演出を意図的に配したドラマで、監督のポール・バーテルなどは、こうしたカルト的な演出により感情を揺さぶる手法を得意としていた[9]。
ドラマは、不倫やキャラクター間で複雑に絡み合う恋の駆け引きを中心にメロドラマを描きつつ、超常現象を背景にストーリーが展開するなど、ブラック・コメディの性質が強かったこともあり、少し際どい演出を含むことが番組の人気だった。
また、シェイファーの役柄ザンドラ・リプキンは[10]母親に対してやや反抗的な役柄であり[11]、ドラマのなかで彼女はボーイ・フレンドとベッドを共にする場面などを演じた。
これら、すこし過激な演出が精神疾患を抱えるロバート・ジョン・バルドへ妄想を抱かせ、歪んだ執着と憎悪からストーカー事件へ発展する引き金になったと言われ、のちに殺人犯バルドは法廷での犯行動機を証言するなかでこのシーンへ触れ、「シェイファーが娼婦まで堕落したと感じた」などと証言する。
1989年7月18日、このドラマ放映から1ヶ月後に、彼女へ執着しストーキングをつづけたバルドによって殺害が実行され、自宅アパートにて射殺。これがレベッカ・シェイファーにとって生前最後の作品となり、21歳の短い生涯を閉じる事となった。
殺害当日は『ゴッドファーザーPARTIII』の台本到着をアパートの部屋で待機しており[12][13]、翌日は映画のオーディションが控えていた。
レベッカ・シェイファー殺害事件
事件の当日の朝、シェイファーは部屋で『ゴッドファーザーPARTIII』の台本が届くのを待っていた。台本は郵送で届く予定だった。
父親によると、事件の1、2日前に電話で話した際には、シェイファーから「撮影現場へ招待されている」と聞いており、実際に彼女はこの作品でアル・パチーノ演じる主人公、マイケル・コルレオーネの娘である、メアリー・コルレオーネ役の最有力候補で、事件の夜には監督のフランシス・コッポラと会う予定だった[15]。
これについて、シェイファーはハリウッドのエージェント、ジョナサン・ハワードともゴッドファーザーのオーディションについて会話を交わしており、ハワードの証言では、彼女がメアリー役を勝ち取ることにとても熱心だったと伝えられた。
部屋へ訪ねてきた殺人犯ロバート・バルドを部屋へ迎え入れてしまった事情は、映画のオーディションが目前へ迫っていたこと、台本が届くのが事件当日だった事という、こうした条件が重なったからだと考えられている。
またアパートのインターホンが故障していたため、犯行当日はドアを開けなければ訪問者とは会話できなかったことも不幸だった[16]。
まさにトップ女優への階段を駆け上がる目前の出来事だった。
友人たちは彼女に警告していた
『マイ・シスター・サム』の全エピソードを欠かさず録画し、大量のファン・レターを送りつけていた殺人犯ロバート・バルドに対し、シェイファーはいちど、写真とサインを添えた手紙で返信してしまう。
それはジョン・レノンの曲から歌詞を引用しつつ、「ボクは孤独な男です」、「ボクは無害な男だけど、きみはボクを傷つけるかもしれない」などと[19]シェイファーへの想いを書いた内容だった。これに対し「これまで受け取ったファン・レターのなかでも最もステキな内容だ」と、手紙でごく個人的な反応を返してしまったのだ。
友人たちは、「誤解を呼ぶ可能性があるから、そんな事はやめるべきだ」と忠告し、撮影現場では業界経験が豊富なヘア・スタイリスト、ジュディ・クラウンも、シェイファーに対し、ファンとの個人的なやり取りを絶対に避けるよう注意したと回顧。
親しかった共演者パム・ドーバーまで彼女の無防備なライフスタイルへ警鐘を鳴らしており(後述)、レベッカ・シェイファーの無警戒な生活態度は周知となっていた。
そして実際、それはバルドの執着心をさらに煽ったと見られている。
死に際に「なぜ? なぜ?」と彼女は言った
シェイファーに「時間の無駄だ」と言われたバルドは激昂し、忘れ物をしたふりをしながら気づかれないように背後へ手をまわすと、357マグナムを握り、彼女の胸を至近距離から撃ちぬいた。死に際にシェイファーが「なぜ? なぜ?」と繰り返していたとバルドはのちの鑑定で精神科医へ語った。
“彼女は私がこれまで知る中で、最も素敵な人たちのひとりだった。誠実で正直で、親切だった。彼女は若手女優のなかでも成功しており、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったので、次々と仕事を得ていた。こんなことが起こるなんて信じられない”-ジョナサン・ハワード(ハリウッドのエージェント)
近所の住人が、「午前10時15分ごろ、銃声のあとに、2つの大きな悲鳴が聞こえた」と証言している。同じく近所の住人ケネス・ニューウェルによると、銃声を聞いてすぐに駆けつけたが、もうどうしようもない状況だったと語った。
バルドが逃亡した後にシェイファーを発見したのは隣人やアパートの住人で、その中には共演経験があったジェニー・オハラの友人もおり救急車の到着まで彼女を見守った。
1989年、7月19日午前0時づけのロサンゼルス・タイムズによると、シーダーズサイナイ・メディカルセンターへ搬送されたが、到着時に死亡が確認された[21]。
いっぽう逃亡したバルドは、持ち歩いていた『ライ麦畑でつかまえて』をどこかの家の屋根へ投げ捨てると車道へ飛び出して「俺はシェイファーを殺した」と叫んだり、泣き喚くなどの異常行動をとったため、目撃者の通報により、まもなく身柄を拘束された。一説によると足元はビーチサンダルだったという[22]。
また別の記事では、犯行の数分前にバルドから電話を受けた妹が、彼の口からあやふやな殺害計画を聞かれていたとも伝えられた。シェーファーが亡くなった事を知った妹は、高速道路パトロール隊の友人へ連絡を取り、その友人がロサンゼルス市警へ通報を行った。妹は、犯行のためにロサンゼルスへ旅立つ直前のバルドから手紙をもらっており、そこには「俺は手に入らないものへ執着しているので、手に入らないものを排除しなければならない」と綴られていた[23]。
バルドは当初、「アメリカ史上最年少の親善大使」ことサマンサ・スミスをストーキングしていたが、1985年に彼女が飛行機事故死すると、シェイファーにその対象を替え、3年間ものストーキングの末、凶行に及んだ[24][25]。
物的証拠
拘束されたバルドの証言により、逃亡時に投げ棄てられた物証が回収された。ビバリー ブールバード付近では銃のホルスターが回収された。
クリーニング店の屋上からは、脱ぎ捨てられた黄色のシャツが見つかり、リハビリセンターの屋上からは『ライ麦畑でつかまえて』の、赤いペーパーバックが発見された[26]。
J・D・サリンジャーの作品である『ライ麦畑でつかまえて』は、ジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマンが犯行時に持ち歩いていたこともあり、バルドによるストーカー行為や、犯行動機について何らかの影響を疑われたが、捜査によると因果関係の解明まで至らなかった[27]。
地方検事副官 クラーク
バルドは第一級殺人罪で起訴、2年後に裁判へかけられる事となった。
"有名人へのストーカー行為は、たんに「この人なら近づけそう」という幻想によって惹かれているに過ぎません。
本当の恋愛感情などではありません。崇高な理想を追いかけるような気持ちでは無い” — 地方検事副官 マーシャ・クラーク[28]
殺人犯バルドの家族とその弁護サイドは、バルドが幼少期から抱える病気のせいで、例えば統合失調症による命令幻聴などにより「衝動的に犯行した」などと、おもに精神疾患を理由に無罪放免を狙った。
それへ対峙するロサンゼルス副地方検事マーシャ・クラークは、シェイファーの遺族たちと面談をした際に、「犯人を裁きにかけるために、わたしは全力で闘うつもりだ」と宣言し[29]、精神疾患による心神喪失をうったえる犯人側の弁護を、完全否定することで挑んだ。
クラークは、特別重大事件をあつかう担当部署へ、1981年から検事補として勤務、血みどろの法廷闘争のなかで何百人もの犯罪者を起訴したベテランである。
いくつもの複雑なプロファイル事件を受けもち、心理学や、統計データを駆使しながら[30]、担当した20件の裁判のうち19件で勝訴という、圧倒的な成績を残した極めて優秀な検事だった。
また、ガーディアン紙の記事によると[31]、彼女にたいする周囲からの評価は人格者そのもので「とても高潔な人物」とされ、30年以上のキャリアある裁判官などは、彼女を「検察官のなかで、最も倫理的だった」と評した。
法廷
検事副官クラークは、弁護側の法医学精神科医パーク・ディーツが用意したバルドの自白ビデオテープを繰り返し視聴、徹底的に分析し、嘘や矛盾を崩していった。
例えば銃を背後へ隠して引き抜く行動などを「衝動的ではなく、これは計画性のある犯行だ」と主張、証人喚問へバルドに銃を買い与えた兄妹を証人として呼び、「銃の購入は殺害の事前準備に他ならない」と計画性を証明してみせた。
また、セレブリティ・ストーカーを研究する専門家ギャビン・ベッカーを法廷へ呼び、著名人をつけ狙う心理についてアドバイスを求めた。
のちの1995年、クラークは主任検察官として彼女自身が「あれは地獄のような法廷だった」と回顧する『O.J. シンプソン裁判』 を担当し、世間へ広く名前を知られる事となるが、本件の『レベッカ・シェイファー殺人事件』はクラークがそれ以前に取り組んだ最難関の事件だった。
当時の彼女は第一子を身ごもっており、2019年のABCニュース『20/20』インタビューのなかで、シェイファーの遺族と面談する際に「とても緊張していた。じつは、お腹が目立っていないかと気にしていた」と語った[32]。
1991年10月29日、バルド側が死刑回避の交換条件で陪審放棄、陪審なし裁判へ至り有罪判決が確定。12月22日には第一級殺人罪で無期懲役の審判が下り、クラークは宣言どおり見事に検察官として有罪を確定、バルドは終身刑に処せられた。
ロバート・ジョン・バルドは、現在もカリフォルニア州の刑務所に収監されている[33]。
事件の余波
『マイ・シスター・サム』で姉役を演じたパム・ドーバーにとって、シェイファーの喪失は大きな心の傷とともに、悔やみきれない思いを残すことになった。
“「あなたは人気番組に出演しているし、この番組へしばらく出演することになる。だからあの郵便受けに苗字を書かないで」と言ったのに、彼女はそれをやってしまったんです” -パム・ドーバー」
ひとつは、25歳のころに私生活で姉を亡くしていたドーバーは、ドラマで共演したシェイファーと意気投合し、実の姉妹のように親身に接していたこと[36]、ふたつめは、自身もストーカー被害にあった経験から「郵便受けには本名を書かないこと」と忠告したのだが、シェイファーがそれを気に留めなかったことである。
殺害事件の翌月、シェーファーを偲んで、パム・ドーバー、他に共演者のジョエル・ブルックス、デヴィッド・ノートン、ジェニー・オハラらが、「拳銃暴力防止センター」による公共広告を撮影するために再集結した[37][38]。
しかし銃社会のアメリカにおいて、このスポットCMを広く放映することは大変困難であり、パム・ドーバーが「私たちはロビー団体に参加したり、そういう事を求めているわけではない、この国で毎年どれほどの人が銃で撃たれているのか考えて欲しいだけです。統計では、1時間に3人も撃たれている」と訴えなければならなかった[39]。
2019年には、ABCニュースの配信コンテンツにて事件を振り返るとともに、スポットCM放映時の様子が伝えられた。
当時シェイファーと交際していた映画監督のブラッド・シルバーリングは、このときに体験した彼女の家族との関わりを基に、2002年に映画『ムーンライト・マイル』を制作[41]。
のちにシルバーリングと面識をもったブラッド・ピットは、「慰めにはならないけれど」と前置きし、シェイファー殺害事件の1989年当時、自分は近所に住んでいたと語った。そして彼女の死によって、若い俳優たちに与えた衝撃と安全意識は計り知れないものだったと付け加えた。