1270年10月、レヴォン3世の子として生まれる。
1293年、兄のヘトゥム2世は王位をその弟トロス(トロス3世)に譲り、修道院に入って聖フランシスコ派の僧となり、ジョンと名乗った。ヘトゥム2世が退位したにもかかわらず、国王トロス3世と諸大候たちは重要な事項についてはヘトゥム2世のところに行って相談した。
1295年、トロス3世の妹イサベルがティル伯アマウリクと結婚することになり、この結婚祝賀のためにスィス市に集まったトロス3世と貴族たちがヘトゥム2世に強く懇願した結果、ヘトゥム2世は国政に復帰した。
ヘトゥム2世は帰国後、トロス3世と共に妹である東ローマ皇帝ミカエル9世パレオロゴスの皇后マリアに会いにコンスタンティノープルへ赴いた。このとき弟のスンバトを摂政として残したが、スンバトは諸侯を糾合して自ら立って国王となった。スンバトは1297年にスィス市において総大主教グレゴリウスによって聖別されて国王となった。スンバトはイルハン朝のガザン・ハンのところにも王位の承認を求めに行き、ガザン・ハンからもキリキア王国の封冊を得ることができた。ガザン・ハンはさらにスンバトの親族の王女の一人を与えて結婚させた。スンバトはスィス市に帰ると、スンバトと総大主教グレゴリウスは治世が変わったことをローマ教皇に通知し、キリキアの君主は自分と王国とともにローマ教会の保護下に入った。翌年(1297年)、ヘトゥム2世とトロス3世がキリキアに帰国すると、スンバトは2人を国外へ追放した。2人はコンスタンティノープルに引き返して援助を求めたが、東ローマ帝国は彼らにわずかな金銭を与えたに過ぎなかった。彼ら二人はガザン・ハンの宮廷へ行こうと思ったが、カイサリヤ市で捕らえられ、バルズルベンドで幽閉され、3日後、この地でガザン・ハンの命令でトロス3世は死刑となり、ヘトゥム2世は目をつぶされた。これらの残虐行為はスンバトによる煽動のせいであり、このことは彼の弟コンスタンディンの復讐を招き、コンスタンディンはスィス市に進撃してスンバトを破って捕虜とし、1298年にコンスタンディン3世として即位した。