ロマン・ローゼン

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ロマン・ロマノヴィッチ・ローゼン男爵ロシア語: Рома́н Рома́нович Ро́зен, ラテン文字転写: Roman Romanovitch Rosen, 1847年2月24日 - 1921年12月31日)は、帝政ロシア外交官日露戦争時の駐日ロシア公使、駐大使。

生誕 (1847-02-24) 1847年2月24日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国エストリャント県英語版・レーヴェリ(現: エストニア タリン
職業外交官
概要 ロシア帝国の外交官、男爵 ロマン・ロマノヴィッチ・ローゼンРоман Романович РозенRoman Romanovitch Rosen, ロシア帝国 駐日公使、駐米大使 ...
ロシア帝国の外交官、男爵
ロマン・ロマノヴィッチ・ローゼン
Роман Романович Розен
Roman Romanovitch Rosen
Baron Roman R. Rosen
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 駐日公使、駐米大使
個人情報
生誕 (1847-02-24) 1847年2月24日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国エストリャント県英語版・レーヴェリ(現: エストニア タリン
死没1921年12月31日(1921-12-31)(74歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク
国籍ロシア帝国の旗 ロシア帝国
職業外交官
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人物・略歴

ローゼン家は、代々音楽家や軍人、フランス元帥オーストリア陸軍元帥などを輩出してきたバルト・ドイツ系ロシア貴族の家系で、1812年ボロジノの戦いでアストラハンスキー連隊を率いて戦ったことがバルクライ・ド・トーリ将軍配下のボロージン少将の公式報告書に記載されている。1905年7月5日付けのワシントンポスト紙はレポートの中でローゼン家が、スウェーデンに起源を持つことを紹介している。

ローゼンはロシア外務省に入省し、外交官として在外公館に赴任し、公使として日本およびアメリカ合衆国に赴任した。駐日公使としては、1897年から1898年、間をおいて1902年から1904年まで着任した。1898年4月には、東京で西徳二郎外相とのあいだで西・ローゼン協定をむすんだ[1]

ポーツマス講和会議。ローゼンはテーブル奥の右から2人目。

日露戦争開戦前夜に日本側と交渉に当たっている。ローゼン自身は、戦争回避の立場に立っていたとされるが、皇帝ニコライ2世および本国政府の訓令に従い、対日交渉は強硬なものとあった。ポーツマス講和会議では、ロシア側全権代表となったセルゲイ・ウィッテを補佐し、日本側と交渉に当たった[2][注釈 1]。その後、司法大臣としてシベリアにおける司法制度を改革した。また、国家評議会議員となった。

1917年ロシア革命勃発後はスウェーデンを経てアメリカ合衆国亡命し、ヨーロッパの外交と政治について、アメリカのサタデー・イブニング・ポスト紙に評論を載せ、これは後に1919年から1921年に『外交官生活40年』のタイトルで出版された。1921年にニューヨークで交通事故死した。

子に1人娘エリザヴェータ・ロマノワ(1900年前後?-1972年)[4]がいる。西条八十は日記のなかで彼女について「青白いで捏つた彫刻のやうな姿」と評しており、軽井沢にあった別荘の様子を「青く塗った小さな小綺麗な洋館であった。窓下には紅い蜀葵が咲いて、奥から快いピアノの音が洩れてゐた」と記している[注釈 2]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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