ワット・マイ・スワンナプームマラーム
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ワット・マイ・スワンナプームマラーム(ラーオ語: ວັດໃໝ່ສຸວັນນະພູມມາຣາມ、英語: Vat Mai Suvanaphumaram)は、ラオス人民民主共和国の古都ルアンパバーンにある最大級かつ最も豪華な装飾が施された王室寺院の一つ。
解説
ラオス王室と深い関わりを持ち、長年にわたりラオス仏教界の最高僧正の御座所でもあった。一般にワット・マイ(新しい寺院の意)(ラーオ語: ວັດໃໝ່)とも呼ばれる。創建当時はワット・シースワンナプームマラーム(ラーオ語:ວັດສີສຸວັນນະພູມມາຣາມ、英語:Vat Si Suvannaphumaram)という名称であった。
1995年にユネスコ世界遺産に登録された歴史地区ルアン・パバンの町の中心部に位置し、本堂は「ルアンパバーン様式I」に分類される。かつての王宮(現在のルアンパバーン国立博物館)に隣接している。
今日においても、ワット・マイは仏教研究の重要な拠点であり、4月中旬のラーオ正月(ピーマイ)の期間には、灌仏のためにパバーン仏像がワット・マイへと渡御される。
アヌルット王(在位1795 - 1817年)(ラーオ語:ພຣະເຈົ້າອານຸຣຸດ)(別名「白傘の君主」)の治世下である1796/97年に建立された[1]。
- 当時、ラーンサーン王国は統一国家ではなく、北部のルアンパバーン、中部のヴィエンチャン、南部のチャンパーサックという3つの独立した王国に分裂しており、それぞれが「百万頭の象と白傘の王国(ラーンサーン王国)」の正当な後継国家であると主張していた。
- 1778/79年以降、これら3つのラーオ諸王国はすべてシャム(タイ)の属国となり、バンコクへ定期的に貢納を行っていた[2]。
1821年、マンタトゥーラート王(在位1817年 - 1836年)(ラーオ語:ພຣະເຈົ້າມັງທາຕຸຣາດ)によって大規模な修復・改修が行われた[3]。この際、巨大な本尊仏、2基の仏塔などが整備され、それ以来「ワット・マイ(新しい寺院)」)(ラーオ語: ວັດໃໝ່)と呼ばれるようになった[4]。
1850年代から、600年以上続いたラーオ君主制がラーオ人民民主共和国の宣言とともに終焉を迎えた1975年末まで、1世紀以上にわたって、ラオスの歴代4人の最高僧正の本拠地でもあった[2]。また、多くの王族が沙弥や比丘として出家した[2]。
1891年、サッカリン・カムスック王(ラーオ語:ພຣະເຈົ້າສັກຣິນ ຄຳສຸກ)が左右の回廊を増築。
1894年、サッカリン・カムスック王(在位1894–1903年)は、パバーン仏像(ラーオ語:ພຣະບາງ)をワット・ヴィスンナラートから移し、ワット・マイの本堂に安置した[2]。同時に、サッカリン・カムスック王は当時の住職であったサートゥ・ニャイ・タン・ティッサパンニャ最高僧正(ラーオ語:ສົມເດັດພະສັງຄະລາດ ຕັນ ຕິດສະປັນຍະມະຫາເຖລະ)を、フランス保護領となったばかりのルアンパバーン王国の新たな最高僧正に昇進させた。その際、パーバーン仏への灌仏の儀式(ソン・ナム・パ・バン)と、ルアンパバーンの高官らによる忠誠を誓う飲水の儀式(ラーオ語:ພິທີຮັບນໍ້າພິພັດສັຕ ຕະຍາ もしくはສາບານຕົວ)がワット・マイで確立された[2]。
1956/57年、上座部仏教世界全体で「仏紀2500年」が祝われた重要な年に、ワット・マイは拠点に選ばれ、仏教2500周年の祝典、高官による忠誠を誓う飲水の儀式、カティナ衣献納儀式、仏教教室、パバーン仏への灌仏儀式などのほとんどの記念活動がワット・マイで執り行われた[2]。
1941年、パバーン仏像(ラーオ語:ພຣະບາງ)を王宮(現ルアンパバーン国立博物館)に移した[3]。
建築と美術
ワット・マイの建築は、伝統的なラオス様式と、その後の文化的融合を体現している。
- 本堂
屋根が5層に重なる複雑な構造を持ち、ユネスコの「ルアンパバーン様式I」に分類される。中央の構造を囲むように回廊が設けられているのが特徴である[3]。その特徴は吹き抜けのような開放的な建物で、巨大な屋根が四方を覆い、二段階の層が連続する構造になっている。側面には、地面近くまで長く伸びた軒を支えるための土台が張り出している。屋根の頂点には大きな破風があり、その上にはさらに小さな屋根がもう一層重なっている。この小さな屋根の中央には屋根飾り(ラーオ語:ຊໍ່ຟ້າ)が飾られ、本堂の後方には、後から増築されたと考えられる横長の堂が隣接して建てられている。正面の回廊部分には、横長のサーラー(休憩所)のような建物が本堂を覆うように位置しており、その屋根は本堂の屋根と繋がっている。そこにある柱は漆塗りに金箔が施され、非常に美しく装飾されている[5]。
ワットマイ本尊
- 本堂の内部には、赤い壁一面に数え切れないほどの小さな仏像が配置されている。中央には荘厳な装飾を施した本尊が鎮座しており、その美しい顔立ちは、ルアンパバーン様式の仏像の一つの典型とされている[5]。
- 正面浮き彫り(レリーフ)

- 本堂の正面の壁面は、一面に金箔を施した漆塗りのレリーフで飾られており、黄金色に輝くその見事な壁画は、壁全体を使ってヴェサンタラ・ジャータカ(ラーオ語:ພະເວດສັນດອນຊາດົກ)を描いている。これはシーサワンウォン国王(ラーオ語:ເຈົ້າມະຫາຊີວິດສີສະຫວ່າງວົງ)の時代、王室のお抱え職人たちの手によって制作されたものである。壁画の下部には様々な種類の動物たちが描かれており、画面の右下には雨を降らせる力を持つ白象の姿も見られる。また、扉にはシエンクワーン(ラーオ語:ຊຽງຂວາງ)様式の芸術による天人の姿が彫り込まれている[5]。
- 瞑想堂

- 本堂の正面と向かい合う場所には、レンガと漆喰で造られた大小の2つの建物があり、これらはウップムンと呼ばれる瞑想堂(ラーオ語:ອູບມຸງ)である。大きい方のウップムンは本堂の方を向いており、中には比較的大きな降魔印を結んだ仏像が安置されている[5]。
- 四角い蓮の花の形をした仏塔

- 四角い蓮の花の形をした仏塔(ラーオ語:ພະທາດ)が立っている。
- 三蔵経蔵(図書室)
- ワット・マイの経蔵はホー・タイ・タンマニャーナヌソーン(ラーオ語:ຫໍໄຕທັນມະຍານນຸສອນ)と呼ばれている。これは寺院の北側に位置し、1975年に故最高僧正を記念して、ソムデット・パ・サングハラート・タンマニャーナ最高僧正(ラーオ語:ສົມເດັດພະຍອດແກ້ວ ພຸດທະຊິໂນລົດ ສະກົນມະຫາສັງຄະປາໂມກ ທ ຳມະຍານະມະຫາເຖລະ (ບຸນທັນ ບຸບຜະລັດ))に率いられたワット・マイの信者らによって建設された。2003年、ルアンパバーンのサンガ(僧団)とラオス国立図書館が協力し、写本研究を目的として、この2階建ての建物を「写本保存センター」として整備した[2]。
- 説法堂(サーラー)
- 1970年、尼僧や信徒が五戒・八戒を守り、ヴィパッサナー瞑想を実践するための場所として建設された。
- 大僧坊
- 1972年、国内外の高僧や賓客を迎えるための宿泊施設である大僧房(ラーオ語:ມະຫາກຸຕິ)が政府予算で建設された。
宗教的意義と儀礼
本寺院は、ラオスの守護仏とされるパバーン仏像(ラーオ語:ພຣະບາງ)と密接な関係にある。
- パバーン仏像の安置
- パバーン仏像(ラーオ語:ພຣະບາງ)は1889年(もしくは1894年)から1941年まで本寺院に安置されていた。現在はルアンパバーン国立博物館内の専用の堂に収められているが、依然として国家的な守護の象徴として本寺院と不可分に結びついている。ワット・マイに安置されていた間、パバーン仏像の警備は、ルアンパバーンの東約10キロ、ナムカーン川沿いにあるバン・ホエイ・ウンの住民による交代制の警備によって行われ、その見返りとして、税金、労働、さまざまな徴用を免除されていた[6]。
- ピーマイ(ラオス正月)
毎年4月の正月期間中、パバーン仏像は王宮からワット・マイへと盛大な行列を伴って運ばれる。ここで3日間一般に公開され、市民や僧侶が香水をかけて仏像を清める「灌仏儀式」が執り行われる[3]。
宣誓の場
歴代の高僧
ワット・マイは歴代の高僧が住職を担った王宮寺院として知られる[7]。

- ソムデット・パ・サンカラート・タン・ティッサパンニャ・マハーテーラ(ラーオ語:ສົມເດັດພະສັງຄະລາດ ຕັນ ຕິດສະປັນຍະມະຫາເຖລະ)
- ルアンパバーン王国 初代最高僧正
- 生年(データなし)、1911年示寂
- ワット・マハータート (ラーオ語:ວັດມະຫາທາດ) 住職、のちにワット・マイ (ວັດໃໝ່ ສຸວັນນະພູມາລາມ)住職。
- 僧王となる前、ルアンパバーン駐在の初代フランス領事であった探検家オーギュスト・パヴィと面会し、「宮廷司教 (Grand aumonier de la Cour)」という称号を贈られた。
- 1887年7月10日、デ・ヴァン・チー率いるホー族がルアンパバーンに侵攻し、多くの市民や高官を殺害し、貴重な寺宝を略奪した際、パヴィは最高僧正タンと、サッカリン王の父であるウンカム王(1811年生まれ、在位1870-1894年)の命を救い、船でパークラーイへと逃がした。
- ワット・マイに隣接するパーカーム村の住民は、死後、最高僧正タンを記念して、ワット・マイの北側、王宮に接する通りを「サトゥ・タン通り」と名付けた。
- ソムデット・パ・サンカラート・パーン・パンニャーウッタ・マハーテーラ(ラーオ語:ສົມເດັດພະສັງຄະລາດ ປານ ປັນຍາວຸດທະມະຫາເຖລະ)
- ルアンパバーン王国 最高僧正(1915年〜1921年)
- ワット・マハータート (ラーオ語:ວັດມະຫາທາດ) 住職、のちにワット・マイ (ວັດໃໝ່ ສຸວັນນະພູມາລາມ)住職。
- 1854年誕生、1929年示寂。
- 1889年、医学と芸術を学ぶため、副王ブンコンとともにバンコクに留学
- 1915年、シーサワーンウォン王の時代に僧王に任命され、ワット・マイに移る。
- ソムデット・パ・サンカラート・クン・ラッタナ・マハーテーラ(ラーオ語:ສົມເດັດພະສັງຄະລາດ ຄຸນ ລັດຕະນະມະຫາເຖລະ)
- ルアンパバーン王国 最高僧正(1921年〜1931年)
- 1855年誕生、1931年示寂。
- ソムデット・パ・ヨートケーオ・プッタシノロット・サコンマハーサンカパモーク・タンマニャーナ・マハーテーラ(ブンタン・ブッパラット)(ラーオ語:ສົມເດັດພະຍອດແກ້ວ ພຸດທະຊິໂນລົດ ສະກົນມະຫາສັງຄະປາໂມກ ທ ຳມະຍານະມະຫາເຖລະ (ບຸນທັນ ບຸບຜະລັດ))
- ラオス最高僧正
- ワット・マイ住職
- 日付:1891年2月8日誕生、1984年6月24日示寂。
- 1891年、ルアンパバーンのパーカーム村にて誕生。1903年、12歳でワット・ローンクーンにて沙弥となる。伝統的な経典のほか、中国語による算術なども習得し、厳しいヴィパッサナー修行や13の頭陀行を毎年実践。1912年、20歳で比丘となる(法名:タンマヤーノー)。
- 1936年にラオス王国僧王に任命。当初はワット・ローンクーンに住んでいたが、1940年、シーサワーンウォン王の要請によりワット・マイへ移った。これは、以前の座所であったワット・ローンクーンがメコン川の対岸(当時はタイの占領下)にあり、往来が困難であったためである[7]
- 1955年、ラオス僧団代表としてビルマでの第6回結集に参加。1956年、スリランカ、インド、ビルマを巡礼。ビルマ政府より最高位の僧称号を授与される。
- 1973年6月、教皇パウロ6世の招待によりバチカンを訪問。仏教徒の僧侶として初めて教皇と公式に会談し、宗教間対話の重要な文書を交わした。
- 1975年のラオス革命後、ラオス仏教連盟の最高顧問に任命。
- 1979年にタイの僧侶病院へ治療のため赴き、5年後の1984年に示寂。
- サトゥ・ニャイ・ファン・ティッサワンサ・マハーテーラ(ສາທຸໃຫຍ່ຝັນ ຕິດສະວັງສະມະຫາເຖລະ)
- 称号:パ・ラックカム・スワンナブリー・シーカナージャン(ラーオ語:ພຣະຫລັກຄຳ ສຸວັນນະບູຣີ ສີຄະນາຈານ)
- ワット・マイ住職
- 1925年8月1日誕生、1993年3月18日示寂。
- 1954年、ワット・マイ住職となり、最高僧正の秘書も務めた。
- 1966年、ルアンパバーン県の教区長に任命。
- 1950年代から60年代にかけて、最高僧正に随行してビルマ、スリランカ、インド、タイなどを訪問。1975年の革命後はタイのワット・ヤーナワーに滞在し、そこで示寂。
