ヴァレリー・カルピン
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Valeri Georgievich Karpin
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| 名前 | ||||||
| 本名 |
ヴァレリー・ゲオルギエヴィチ・カルピン Valeri Georgievich Karpin | |||||
| ラテン文字 | Valeri Karpin | |||||
| ロシア語 | Валерий Гео́ргиевич Ка́рпин | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1969年2月2日(56歳) | |||||
| 出身地 |
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| 身長 | 182cm | |||||
| 体重 | 77kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF(RMF, OMF, CMF)[1] | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1985-1986 |
| 25 | (1) | |||
| 1986-1989 |
| 3 | (0) | |||
| 1990 |
| 25 | (7) | |||
| 1991-1994 |
| 116 | (29) | |||
| 1994-1996 |
| 72 | (16) | |||
| 1996-1997 |
| 36 | (6) | |||
| 1997-2002 |
| 168 | (26) | |||
| 2002-2005 |
| 107 | (20) | |||
| 2007 |
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| 代表歴 | ||||||
| 1992 |
| 1 | (0) | |||
| 1992-2003[2] |
| 72 | (17) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 2009-2012 |
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| 2012-2014 |
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| 2014-2015 |
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| 2015-2016 |
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| 2017-2021 |
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| 2021- |
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| 2022-2025 |
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| 2025- |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
ヴァレリー・カルピン(Valeri Karpin, 1969年2月2日 - )は、エストニア・ナルヴァ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー(右ミッドフィールダー、オフェンシブミッドフィールダー)[1]。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった直後にロシアで初めて反対した元スポーツ選手の1人とされている[3]。
エストニア生まれであるが、ソ連崩壊時、国際舞台での活躍機会の多いロシア代表を選択した。
1985年に地元のクラブチーム、スポルト・タリンでキャリアをスタート。1991年にスパルタク・モスクワへ移籍すると3年連続リーグ優勝を果たし、1994年のアメリカW杯にも出場。同年リーガ・エスパニョーラ・レアル・ソシエダへ移籍し、その後バレンシアCF、セルタ・デ・ビーゴとスペインのクラブチームを転々とし、セルタではアレクサンドル・モストヴォイとともにチームの上位進出に貢献。モストヴォイとのコンビは「ロシアン・コネクション」と呼ばれ、称えられた。1999年のロシア最優秀選手にも選ばれた。
その後、2002年には日韓W杯にもロシア代表として出場し、日本代表とも対戦。同時にソシエダに復帰し、チームの中心選手として活躍した。
2004-05シーズン終了後、現役を引退し選手生活に終止符を打ったと思われたが、2007年にセグンダ・ディビシオンB(3部相当)のコルショFCと契約を結び、現役復帰した。その後改めて現役引退。
指導者経歴
2008年、かつて所属していたスパルタク・モスクワのゼネラルディレクターに就任[4]。
2009年4月、成績不振により解任されたミカエル・ラウドルップの後任として同クラブの監督に就任した。
2011年4月18日、開幕から成績不振でクラブ史上最悪のスタートを切ったとして辞任を表明したが、最終的に2011-12シーズン終了まで監督を務めた。リーグ戦最終順位は2位であった。
2012年11月25日、成績不振により解任されたウナイ・エメリの後任として、年内までの暫定指揮をとった後、再びスパルタク・モスクワの監督に就任した。
ロシア・カップで3部のFKトスノに0-1で敗退、リーグ戦で下位のFCアンジ・マハチカラにホームで2-2で引き分けたことが引き金になり、2014年3月18日、解任された。
同年8月12日、セグンダ・ディビシオン・RCDマジョルカの監督に就任した。2015年2月10日、降格圏寸前の15位に低迷したため解任された。
2015年、ロシア・ナショナル・フットボールリーグへ昇格したFKアルマヴィルの監督に就任した。就任後1年でロシア・セカンドディビジョンに降格したため、2016年6月23日解任された。
2017年12月9日、FCロストフの監督に就任した。2020-21シーズンは日本代表の橋本拳人を指導し、2021年8月まで指揮した。
2021年7月23日、ロシア代表の監督に就任した[5]。2022 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選ではグループDで2位に入り、2次予選進出を果たしたが、ウクライナ侵攻の影響でFIFAとUEFAから無期限の追放処分となった。
2022年3月10日、ロストフの監督に復帰[6]。引き続きロシア代表の指揮は執り、クラブと代表の兼任の形となる。
2025年2月25日、代表監督に専念するためロストフの監督を退任[7]。
同年6月13日、FCディナモ・モスクワの監督に就任。引き続きロシア代表の指揮は執り、クラブと代表の兼任の形となる。
事業者として
引退後はスペインに留まり、事業を開始。スペインのテレビ局「TVE2」でサッカー中継の解説も務めていた。また2007年には長年プレーしたセルタ・デ・ビーゴの本拠地であるビーゴに自転車ロードレースのコンチネンタル・プロチーム「カルピン・ガリシア(現・シャコベオ・ガリシア)」をミチェル・サルガドと共に創設。2007年のブエルタ・ア・エスパーニャはこのチーム創設を祝って第1ステージをビーゴからスタートしゴールした。
その他
レアル・ソシエダ時代のニックネームは「腐った牛乳」。カルピンのキツイ性格を意味するスペイン語のスラングである。