一〇一号作戦
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背景
立案
兵力
日本軍
陸軍

第三飛行集団司令部
飛行第60戦隊(九七式重爆撃機36機 補用18機)
独立飛行第16連隊 (司偵9機 補用3機)
飛行第44戦隊(司偵5機 補用2機)
独立飛行第10中隊(九七式戦闘機9機 補用3機)
海軍

第一連合航空隊
鹿屋航空隊(九六式陸上攻撃機など18機 補用15機 陸偵4機)
高雄航空隊(九六式陸上攻撃機など18機 補用15機 陸偵2機)
第二連合航空隊
第13航空隊(九六式陸上攻撃機など27機 補用15機 陸偵4機)
第15航空隊(九六式陸上攻撃機など27機 補用15機 陸偵2機)
第12航空隊(艦上戦闘機27機 補用9機 艦上爆撃機9機 補用3機 艦上攻撃機9機 補用3機)
第14航空隊中支派遣隊(艦戦9機 補用3機)
中国軍
中華民国空軍

重慶 戦闘機約30機
宜賓 軽爆約10機
蘭州 戦闘機約20機 重爆数機 軽爆約20機
昆明 戦闘機約20機
(機数は日本軍推定)
ソ連空軍志願隊
経過
初期
陸軍航空隊の発進基地は運城に、海軍航空隊の発進基地は漢口(一部は考感飛行場)とし、初日の爆撃で重慶死者178人、負傷408名を記録した。
また、各国大使館や報道機関への着弾も精密性に欠けることから起きてしまい、最終的に退避地域を指定して退避するように要請することで解決した。
しかし当時の日本軍戦闘機では航続距離が足りず、特に中攻の損害がとりわけ目立っていた。このままでは練度の高い搭乗員がかなりの数削がれ、航空兵力の弱体化が目に見えていたため、大本営は新型戦闘機の開発に躍起になっていた。
零戦の登場以降
1940年(昭和15年)7月15日、第二連合航空隊から横山保大尉と進藤三郎大尉率いる零戦13機が進出した。九六式陸上攻撃機の護衛を主任務として活動したものの、会敵することはほとんどなかった。[2] [3] 9月半ばに、ようやく中国軍機と戦闘し、ほとんどを撃墜した。またその際、戦闘による零戦の損害はほとんどなかった。[4]
この日を境に中国軍は航空機を温存するようにし、空襲警報と共に奥地へと航空機を退避させるようにした。
その他、精密爆撃の非効率性が露呈してきたため、重慶市内を各区画に分けて順番に各区画を絨毯爆撃する方法を編み出し、事実上無差別爆撃を行う形となった。[5]
結果
その他
日本軍はその後一〇二号作戦を立案し、実施した。
また、一〇一号作戦発動中は、ちょうどドイツによるロンドン空襲が実施されていた時期と重なり、重慶市民はある種のロンドンとのつながりを感じていたとされている。

