一戸兵衛
日本の陸軍軍人
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経歴
弘前藩士一戸範貞の長男として生まれ、東奥義塾を経て1874年(明治7年)10月には陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り[1]、1876年(明治9年)3月には陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。1877年(明治10年)の西南戦争に出征し、負傷する。同年5月、少尉に進級する。1878年(明治11年)2月、歩兵第1連隊付に移り、1880年(明治13年)5月には中尉に進級し陸軍教導団小隊長を命ぜられる。1883年(明治16年)6月、大尉に進み歩兵第8連隊中隊長、1885年(明治18年)5月、歩兵第10旅団参謀、1887年(明治20年)11月の歩兵第12連隊付を経て1888年(明治21年)2月、少佐に進級する。
1889年(明治22年)3月、広島鎮台歩兵第11連隊大隊長に移り、1894年(明治27年)6月から日清戦争に出征する。同年中に中佐に進級し第5師団副官を命ぜられる。1895年(明治28年)3月、歩兵第21連隊長に就任し、同年7月には戦役から帰還する。同年8月、再び第5師団副官に就き、11月には留守第4師団参謀長に移る。1896年(明治29年)10月の中部都督部参謀を経て1897年(明治30年)10月、陸軍大佐に任ぜられ近衛歩兵第4連隊長を拝命する。翌年、茨木惟昭中将が師団長を務める第6師団参謀長に就任。
1901年(明治34年)5月、陸軍少将に進級し歩兵第6旅団長を命ぜられる。1904年(明治37年)6月から日露戦争に出征し、この時の戦功から個人感状を受ける。1905年(明治38年)3月から第3軍参謀長に移り、1906年(明治39年)1月に帰還する。戦後、第1師団司令部付・歩兵第1旅団長を経て1907年(明治40年)11月には陸軍中将に任官され、第17師団長を親補される。1911年(明治44年)9月、第4師団長、1912年(大正元年)12月には第1師団長に移る。1915年(大正4年)2月、軍事参議官に就任し枢機を預かり、同年8月には陸軍大将進級、同12月には陸軍三長官の一角教育総監に就任する。1919年(大正8年)8月、再び軍事参議官に就き、翌年6月後備役編入となる。
現役を退いてからは1920年(大正9年)5月から1922年(大正11年)11月まで学習院長を務め、1924年(大正13年)8月には明治神宮宮司に就任する。1926年(大正15年)2月から帝国在郷軍人会会長も兼ねた。後には紘弘会会長も務めた。同年10月23日の神宮球場竣功式(摂政宮と閑院宮臨席)で始球式のピッチングを行った[2][3]。
日清戦争出兵
日清戦争では先遣隊として福島安正、上原勇作とともに朝鮮半島に渡海する。航海中、大時化のため大隊は船酔いで皆死んだような状態であった。第5師団の元同僚で友人である上原に「こんな風で戦は出来るか」と散々悪口を言われると、一戸は奮起して起き上がり、顔面蒼白のまま軍刀を杖代わりにして艦内を巡視して部下を激励した。しかし船室に戻ると一気に嘔吐したと上原は述懐している。
朝鮮公使から上陸するなと要請されて京城への入城も拒否されるも、上原らと共謀して海軍陸戦隊と入れ替わることで入城することに成功する。京城までの道のりは険しく先遣隊は極度に消耗していた。しかし、陸戦隊よりもはるかに規模が大きかったこともあり、袁世凱は京城から退くことになる。
旅順での勇戦
彼の武名を一躍世に知らしめたのが日露戦争での旅順攻囲戦である。歩兵第6旅団長として参加した彼は第一次総攻撃では盤竜山東西堡塁を攻撃し配下の大内守静歩兵第7連隊長が戦死する程の死闘となるも占領に成功。日本軍で唯一目標の占領に成功した。
続く第二次総攻撃でも無名の1保塁(日本側呼称「P保塁」)を占領する武功を挙げその功によりこの保塁は「一戸保塁」と呼ばれるようになった。
なお、一戸は上級司令部である第三軍司令部の作戦指導に対して当初は懐疑的だったそうである。しかし、奉天会戦後に第三軍参謀長となり、当時の作戦日誌を読み返した結果、当時の司令部の作戦指導は妥当であったと得心した、と戦後に述懐している[5]。
栄典・授章・授賞
- 位階
- 1880年(明治13年)
- 1883年(明治16年)7月15日 - 正七位[6][7]
- 1890年(明治23年)7月3日 - 従六位[6][8]
- 1895年(明治28年)3月28日 - 正六位[6][9]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 従五位[6][10]
- 1901年(明治34年)9月30日 - 正五位[6][11]
- 1906年(明治39年)11月30日 - 従四位[6][12]
- 1908年(明治41年)12月11日 - 正四位[6][13]
- 1911年(明治44年)12月27日 - 従三位[6][14]
- 1915年(大正4年)8月20日 - 正三位[6][15]
- 1925年(大正14年)5月15日 - 従二位[16][17]
- 1931年(昭和6年)9月2日 - 正二位[18]
- 勲章等
| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1885年(明治18年)4月7日 | 勲五等双光旭日章[19] | ||
| 1889年(明治22年)11月29日 | 大日本帝国憲法発布記念章[20] | ||
| 1893年(明治26年)5月26日 | 勲四等瑞宝章[21] | ||
| 1895年(明治28年)10月18日 | 功四級金鵄勲章[6][22] | ||
| 1895年(明治28年)10月18日 | 旭日小綬章[6][22] | ||
| 1895年(明治28年)11月18日 | 明治二十七八年従軍記章[6][23] | ||
| 1899年(明治32年)5月9日 | 勲三等瑞宝章[24] | ||
| 1905年(明治38年)11月30日 | 勲二等瑞宝章[25] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 功二級金鵄勲章[17][26] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 旭日重光章[17][26] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 明治三十七八年従軍記章[17][26] | ||
| 1913年(大正2年)11月28日 | 勲一等瑞宝章[17][27] | ||
| 1915年(大正4年)11月7日 | 大正三四年従軍記章[28] | ||
| 1915年(大正4年)11月10日 | 大礼記念章(大正)[29] | ||
| 1918年(大正7年)11月29日 | 旭日大綬章[17] | ||
| 1920年(大正9年)11月1日 | 大正三年乃至九年戦役従軍記章[30] | ||
| 1931年(昭和6年)9月2日 | 旭日桐花大綬章[18] |
- 外国勲章佩用允許
親族
伝記
- 佐野正時『北の鷹 学習院長一戸兵衛大将の生涯』(光人社、1992年) ISBN 4-7698-0614-0
