仙波太郎
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| 仙波 太郎 せんば たろう | |
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| 生年月日 |
1855年6月5日 (安政2年4月21日) |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1929年2月19日(73歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 |
陸軍教導団 陸軍士官学校(旧2期) 陸軍大学校(1期) |
| 所属政党 | 庚申倶楽部 |
| 称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 功三級金鵄勲章 |
| 配偶者 |
玉井ケイ(1889~1899死別) 矢野タマ(1899~1929) |
| 選挙区 | 岐阜県第3区 |
| 在任期間 | 1920年5月10日 - 1924年1月31日 |
仙波 太郎(せんば たろう、1855年6月5日〈安政2年4月21日〉- 1929年〈昭和4年〉2月19日)は、日本の陸軍軍人、政治家、社会教育者。陸軍士官学校旧2期生。陸軍大学校1期生。最終階級は陸軍中将。衆議院議員。正三位勲一等功三級。

伊予国久米郡福音寺村(現在の愛媛県松山市福音寺町)で仙波元太郎の長男として生まれた[1]。幼名は惣太郎(荘太郎)。『三輪田米山日記』によると、六歳で『大学』を暗誦していた。幼少期は庄屋の一人息子として南久米村の三輪田米山塾で学んだ。庄屋家といっても裕福ではなく、塾代を稼ぐため、隣家の米搗きなどで自ら労賃を得た。明治元年、病に伏した父に代わり13歳で庄屋職(里正)を継ぐが、維新によって多くの土地が接収され家計はさらに困窮した。青年期は学校に通うことができず、薪や魚の行商によって家計を助けながら、本屋での立ち読みによって福沢諭吉やチェンバーズの著書から新知識の吸収につとめた[1]。1874年(明治7年)、19歳の時、陸軍教導団の試験に独学で合格、上京を果たした。後年、『海南新聞』(愛媛新聞の前身)では、青年期の苦学からの立身を称して「伊予の二宮金次郎」と書いている。

1875年(明治8年)、上京後に頼りとしていた河東碧梧桐の父、河東坤(静渓)の勧めで陸軍士官学校を受験し入校した(旧2期)。1877年(明治10年)勃発した西南戦争によるが士官学校休校中、赤坂皇居守衛司令として皇居の守備に当たった。1878年(明治11年)12月、陸軍士官学校を卒業し、翌年2月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。1883年(明治16年)4月10日、同郷の秋山好古(旧3期)らとともに創設されたばかりの陸軍大学校(1期)に入校、1885年(明治18年)12月に優等(三等)で卒業した。

参謀本部課僚、同第3局員を経て1887年(明治20年)4月に第5師団参謀長となる。1889年(明治22年)参謀本部第2局員から陸軍大学校教官となり、同年、旧宇和島藩士、玉井曨虎(ひでとら)陸軍大尉(陸士旧1期)の妹ケイと結婚した。その間、旧松山藩主家久松家当主、久松定謨のフランス留学の補導役の依頼を断ったことが、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』で取り上げられている。これは、陸軍大学校優等卒業の恩典によるドイツへの留学が約束されていたからであり、1890年(明治23年)2月、予定通りドイツ帝国に4年間の官費留学を命じられた。ドイツではヴュルテンべルク王国の都シュツットガルトの第125連隊に所属し、ナポレオンの戦術研究などに没頭した。

1893年(明治26年)4月にドイツから帰国後、歩兵第12連隊大隊長などを経て、日清戦争に第5師団参謀として出征、平壌攻略戦などの作戦立案を行い、勝利に貢献した。 第5師団参謀、第2師団参謀、陸士教官、第3師団参謀長、第10師団参謀長、第8師団参謀長、歩兵第24連隊長などを歴任。1903年(明治36年)4月、秋山好古の後任として清国駐屯軍司令官となり、同年7月、陸軍少将に進級した。

日露戦争中は、清国駐屯軍司令官として前線の隣接地点から戦争を支援した。具体的には、清国がロシアに加担しないように袁世凱、趙爾巽、段祺瑞、張作霖、張勲等、清国の有力軍閥と緊密な関係を保つための外交や兵站など物資の調達に心を配ることで、日本の勝利に貢献した(清国要人や満洲軍総司令部とのやりとりをした書簡が数多く残っている)。

歩兵第31旅団長、歩兵第18旅団長、歩兵第2旅団長などを経て、1910年(明治43年)11月、陸軍中将に昇進。下関要塞司令官、第17師団長(岡山)を経て、1914年(大正3年)4月、第3師団長(名古屋)に任官。名古屋師団長の時、第一次世界大戦が勃発、青島の戦い(日独戦)で捕えたドイツ兵俘虜のための名古屋俘虜収容所が開設された。1915年(大正4年)2月、第1師団長(東京)に任官された(同日付で秋山好古が近衛師団長に任官されている。)。1916年(大正5年)8月に待命となり、翌年4月、予備役に編入された。シベリア出兵に伴い召集を受け、1918年(大正7年)8月から翌年4月まで留守第12師団長(小倉)を務めた。1917年(大正6年)4月21日、後備役に編入された[2]。
退役後は大正期に購入した岐阜県稲葉郡加納町の武家屋敷に移住して加納少年団(現在の岐阜県ボーイスカウト)を立ち上げ、地元青少年の育成に尽力した。1920年(大正9年)、地元有志らが岐阜3区の候補者として届け出た第14回衆議院議員総選挙に当選し、1期を務めた。任期中には部落問題を初めて国会で提起し(『久米郷土誌』)、尼港事件や中国での排日運動の調査、下級軍人の待遇改善、関東大震災後の慰問などに尽力した。
岐阜では北長森村北一色に購入した山林の開墾を行う傍ら、書画にも没頭し、鐘馗や達磨、富士山の絵を多く残した。
最晩年は眼病を患い、昭和4年2月19日、岐阜市加納(現・岐阜市加納朝日町)の自邸で亡くなった。
逸話
- 幼少期に三輪田米山の私塾で学んだ。『三輪田米山日記』には、万延元年9月16日、7歳の時、父、元太郎に初めて連れて来られたことや文久元年11月7日から12月13日までの約1ヶ月住み込みで手習い、漢学を学んだことが書かれている。
- 14歳の時、隣家の池田大三郎(24歳)とともに四国八十八カ所霊場を踏破している。(『久米村誌』)
- 司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の挿絵に魚の行商をする青年期の仙波太郎が描かれている。

産経新聞連載小説「坂の上の雲」挿絵の仙波太郎(下高原健二画) - 陸軍大学校時代の明治17年5月、土居通増と得能通綱を顕彰する「星岡表忠之碑」(松山市星岡)の建立を発起した(書は河東坤)。
- ドイツ留学の具体的な成果の一つとして、射撃術奨励のための射撃に優れた隊に名誉旗を授与していたドイツの制度を陸軍に持ち帰り、採用させた。
- 名古屋参謀長時代、乃木希典中将の子息、勝典、保典の教育監督を務めた。
- 明治34年、愛媛から愛知県名古屋市西区北野町1丁目4番地に本籍を移している。
- 軍に所属しながら一般の学校視察や教育大会に参加し、陸軍士官学校や陸軍大学校の教官として軍隊教育に教養科目を取り入れた。明治39年には『軍隊教育ノ方法ニ就テ』の著書を残している。
- 林太郎中将(陸士旧6期)、宇都宮太郎(陸士旧7期・優等卒業)と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれた。これは、「太郎」が付く将校の中でも、藩閥に与しないという共通点があったからである。

名古屋市、成海神社の忠魂碑 - ドイツ留学の経験があり、ドイツ人にシンパシーを抱いていた仙波はその処遇改善に努め、また、退役後も収容所外での捕虜による演奏会や岐阜中学校における俘虜による器械体操参観を積極的に働きかけて実現した。
- 能書家としても知られ、揮毫した書が各地に残る。揮毫した忠魂碑の類は全国に50基余り現存しており、第十七師団長時代のものは岡山県、広島県に、第三師団長時代のものは愛知県、三重県に、第一師団長時代のものは神奈川県などに、晩年のものは愛媛県、岐阜県などを中心に残っている。

仙波太郎筆の鍾馗図と俳句「寒月を打ち揮る剣の光かな」大正8年冬 - 特技に義太夫があり、内藤鳴雪を師とし、俳句も多く残している。
- 絵も得意で、鍾馗や達磨、富士山を画題として多く描いている。
- 号に鳳林、伯翠、岐南山人などがある。
- 昭和2年4月、福音寺の生家跡に屋敷を建て、「公正会堂」と名付け村の公民館として寄付した。
- 晩年、岐阜加納に移り住んだことについて、タマ夫人の実家は岐阜本町であり、妻の実家を頼ったわけではない。明治34年に名古屋に本籍を移していた仙波としては名古屋に居を構えたかったが、屋敷が高くて買えなかったため、加納の士族屋敷を購入し、結果として岐阜が終のすみかとなったのである。
- おくりなは「金剛院殿伯翠徳風居士」。
- 岐阜市の加納天満宮にはボーイスカウト発祥の地の碑が残り、仙波太郎を顕彰している。
- 墓所は岐阜市の穴釜共同墓地と松山市の土亀山共同墓地にある。

家族
墓所

①岐阜県の穴釜共同墓地(岐阜市)にある。自然石に刻まれた「仙波家代々永眠此処」は仙波太郎の 撰文、岐阜の書家、森桂園が書した。タマ夫人、子孫等と眠る[3]。
②生まれ故郷の福音寺の土亀山共同墓地に分骨された墓がある。父母の墓と同等以上のものは作らぬようとの遺言により、星岡を臨む地に父母の墓の隣に建てられた。題字は陸軍大臣、宇垣一成が書した。

(愛媛県松山市福音寺町)



