一条房家
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文明7年(1475年)(『公卿補任』)または文明9年(1477年)(『大乗院雑事記』)、関白・一条教房の次男として誕生。兄の政房とは30歳近く年が離れており、房家の誕生時には既に兄は応仁の乱で戦死していた。
土佐一条氏は、父・教房のとき所領の土佐国幡多郡に下向して、土佐に在国しながら、公家として高い官位を有しつつ、土佐国最南端部に位置する幡多郡及び高岡郡(高知県西部)を支配した「地域権力」である[3][4]。「戦国公家大名」とされてきたが、このような概念は、極めて曖昧な概念で、一条氏が武家化した存在であったとしても、戦国大名とは言えないとする説がある[5][6]。
明応3年(1494年)、18歳で元服、正五位下、左近衛少将になる[7]。房家自身もその名門の権威をもって土佐の国人領主たちの盟主として勢力を築き、土佐一条氏の最盛期を築き上げた。本拠地の中村には「小京都」と呼ばれるほどの街を建設した。なお、現在の四万十市にある東山や鴨川という地名は、房家が京都にちなんで名づけた地名であるといわれる。
永正5年(1508年)、長宗我部兼序が本山氏によって滅ぼされると、その遺児・長宗我部国親を保護し、その再興を助けた。
永正6年(1509年)、三条西実隆と詩歌のやりとりや、実隆を通じて宸筆詩歌懐紙を所望しており文芸活動を確認できる(『実隆公記』)[8]。
官歴
注記のないものは『諸家伝』による。
- 明応3年(1494年) 2月1日:正五位下(直叙)
- 永正3年(1506年) 6月12日:左近衛中将[9]。11月5日:従四位下[9]
- 永正6年(1509年) 正月26日:従四位上
- 永正7年(1510年) 3月4日:従三位(越階)、中将如元
- 永正10年(1513年) 7月18日:権中納言、中将如元
- 永正13年(1516年) 12月20日:権大納言
- 永正14年(1517年) 8月25日:勅授
- 永正15年(1518年) 5月28日:辞権大納言
- 永正17年(1520年) 5月20日:正三位
- 永正18年(1521年) 5月14日:従二位
- 大永6年(1526年) 正月23日:正二位
- 天文8年(1539年) 11月13日:薨去