一条内政

日本の安土桃山時代の大名・公家 From Wikipedia, the free encyclopedia

一条 内政(いちじょう うちまさ/ただまさ[注釈 3])は、戦国時代末期から安土桃山時代にかけての公家大名土佐一条氏の第5代当主。権中納言一条兼定の嫡男。

生誕 永禄5年(1562年[注釈 1]
改名 万千代、吉房子[2]幼名)→内政
概要 凡例一条 内政, 時代 ...
 
一条 内政
時代 戦国時代末期 - 安土桃山時代
生誕 永禄5年(1562年[注釈 1]
死没 天正13年6月5日1585年7月2日[注釈 2]
改名 万千代、吉房子[2]幼名)→内政
別名 大津御所(尊称)
戒名 天叟守有大居士
官位 従四位下、左近衛中将
氏族 土佐一条氏
父母 父:一条兼定、母:宇都宮豊綱の娘
兄弟 内政按察使局、ほか
正室:長宗我部元親の娘
政親、女[3]
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生涯

永禄5年(1562年)、一条兼定の嫡男として、土佐国幡多郡中村に生まれる。幼名は万千代、または吉房子[2]

天正元年(1573年)9月、父の兼定が家臣らによって出家・隠居させられたことで[6][7]土佐一条氏の当主となり、形式的な土佐国主となった[4][8]。またその際、京都から土佐に下向していた一条家(宗家)の当主・一条内基によって元服が執り行われ、その偏諱を受けて、内政と名乗る[4][8][注釈 3]。なお、この家督交代には、長宗我部元親も絡んでいたとみられる[7]

天正2年(1574年)2月、兼定が中村城(中村御所)を追放され、豊後国に渡った[9][10]。この兼定の追放は、元親が土佐一条氏への介入を進めるべく、内基と交渉したうえで、一条氏の家臣に行わせたとみられる[9]

だが、兼定の追放は土佐一条氏の家臣らに混乱を引き起こし、抗争を招いた[11]。そのため、元親がこの内訌に乗じて、内政を幡多郡の中村城から長岡郡大津城に移し、自身の娘を嫁がせた[11][12]。これにより、元親が内政を「大津御所」という傀儡にし、土佐国内に実効支配を行ったとされるが(大津御所体制論)[13]、この御所体制という概念の存在を疑問視する研究者もいる[14]

天正3年(1575年)5月、内基が土佐を離れ、京都に戻った[8]。その際、内基は元親に対し、内政の庇護や養育を依頼したという[8]

天正8年(1580年)6月、元親が明智光秀を介して、弟の香宗我部親泰を安土に派遣し、織田信長と対面させた。その際の『信長公記』天正8年6月26日条では、元親のことを「土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守」と表現しているが、これは信長の織田政権が内政を土佐国主と認識していた、もしくは意図的に国主と認定することで陪臣である元親の土佐支配を否認して、「信長-内政-元親」の秩序に服従するように要求したと解する秋澤繁の説がある[13]

天正9年(1581年)2月、内政は長宗我部氏家臣の波川清宗謀叛に加わった嫌疑をかけられ、元親によって伊予の法華津に追放された[5][11][15]。なお、内政の妻(元親の娘)や息子の政親、娘は大津に留め置かれたため、内政は妻子と引き離される形となった[15][16]

内政の追放により、土佐一条氏を頂点とする大津御所体制が崩壊し、長宗我部氏と織田氏の関係も次第に悪化していった[17]。前述の秋澤説では、長宗我部側からすれば、信長が認めた土佐国主である内政を追放したことによって、元親は織田政権への服属拒否の姿勢を示し、両者の関係は断絶・交戦状態に入ったと解している[18]

天正13年(1585年)6月5日、内政は父に先立ち、病死した[15]ルイス・フロイスの記録によると、内政が伊予の法華津氏や豊後の大友氏らと結び、土佐に戻ろうとしたため、これを知った元親に毒殺されたと記されている[15][19][注釈 4]。享年24。

官歴

歴名土代』による。

系譜

脚注

参考文献

関連項目

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