一条政親
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天正6年(1578年)、一条内政の嫡男として誕生した。母は長宗我部元親の娘[2][3]。
天正9年(1581年)2月、父の内政が長宗我部氏家臣の謀反に加わった嫌疑により、元親によって土佐国外に追放された[6]。だが、政親と母、姉妹は長岡郡の大津城(岡豊城とも[2])に留め置かれた[3]。
その後、政親は長岡郡の久礼田に移され[2]、元親の家臣・久礼田定祐に養育された[1]。そのため、政親は久礼田御所とも呼ばれた[1][2]。
同年5月、土佐一条氏の諸大夫2名が朝廷から叙位・任官を受けているが、これは元親が政親による「久礼田御所体制」を立てようとしたお膳立てだとみられる[2]。長宗我部氏が幡多郡を支配して既に数年が経っていたが、元親は土佐一条氏そのものを消すにはまだ早いと判断したようである[2]。
政親の存在が確定できるのは、『御湯殿の上の日記』天正14年(1586年)12月22日条に「とさの一てう殿しょ大夫四位。せっつのかみ申」という記事である。この中で「とさの一てう殿」というのは土佐一条氏の当主を指し、父・内政が既に死去しており、政親に兄弟の存在も知られていないため、政親のことを指すと考えられている。なお、政親は朝廷から四位に叙位・摂津守に補任されたが、これは豊臣氏による九州平定の中の戸次川の戦い(同月12日)の直後で、この戦いで長宗我部氏の後継である長宗我部信親は戦死、当主・元親も一時生死不明と大坂城の豊臣政権に伝えられている。そのため、元親・信親父子が揃って戦死し、長宗我部氏の後継問題をきっかけに土佐国内が混乱した場合に備えて、豊臣政権が土佐一条氏を国主として復活させることも視野に入れた上での武家執奏が行われたとみられている(結局、元親の生存が確認されたため、そのような事態は発生しなかった)[5]。
慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いに伴う長宗我部氏の没落後、政親は京都か大和[注釈 1]に向かったとも、土佐に住み続けたともいうが、詳細は不明。