丁会

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丁 会(てい かい、生年不詳 - 910年)は、末から五代十国時代にかけての軍人は道隠。本貫寿州寿春県[1][2]

経歴

丁季の子として生まれた。若くして放蕩無頼で、生業を修めなかった。挽歌に巧みで、悽愴な声を上げては自ら喜んでいた。反乱勢力から成りあがって、功名を立てようと志した。黄巣淮水を渡ると、丁会は朱全忠に従ってその部曲となった。朱全忠が宣武軍節度使となると、丁会は都押牙をつとめた。朱全忠に従って秦宗権を討った[1][2]

文徳元年(888年)、洛陽張全義孟州を襲撃して、李罕之を追放すると、李罕之は李克用の援軍を得て孟州を包囲した。張全義が朱全忠に救援を求めると、丁会と葛従周らが1万人を率いて救援に向かった。丁会は九鼎を渡って李罕之の不意を突き、沇水で戦って李罕之を破り、包囲を解かせた[2]。この年、丁会は懐州刺史に任じられた[1]

大順元年(890年)、朱全忠が魏博を討つと、丁会は葛従周とともに黎陽県臨河県を落とし、羅弘信内黄県で破った。大順2年(891年)、朱全忠が感化軍節度使の時溥を討つと、丁会は別軍を率いて宿州を水攻めにし、刺史の張筠を降した。泰寧軍節度使の朱瑾が1万人あまりを率いて単父県を攻撃すると、丁会は金郷県で戦って朱瑾を破った[2]

丁会は義成軍節度留後を経て、検校司徒・河陽節度使となった。光化2年(899年)、李罕之が潞州ごと朱全忠に降ると、丁会は孟州から沢州を攻め落とした。丁会は昭義軍節度留後となったが、朱全忠の猜疑を恐れて、病と称して洛陽に隠退した[1][2]

天復元年(901年)、朱全忠が河中府晋州絳州を領有すると、丁会は昭義軍節度使として起用された。天復4年(904年)、昭宗が洛陽に遷都すると、丁会は同平章事を加えられた。天祐元年(同年)、昭宗が殺害されたとの知らせが届くと、丁会は三軍に白い喪服を着せて、涕泣して弔意を示した。天祐3年(906年)12月、李克用が丁会を攻めると、丁会は潞州ごと李克用に帰順した。天祐5年(908年)、後梁の将の李思安が潞州を包囲すると、丁会は招討使・検校太尉となった[3][4]

李存勗が晋王位を嗣ぐと、丁会と謀議して、梁軍を夾城で撃破した。天祐7年(910年)11月、丁会は太原府で死去した。同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が即位すると、丁会は太師の位を追贈された[5][4]

男子は7人おり、丁知沆が朱全忠に殺されたほかは、みな内職を歴任した[5]

脚注

伝記資料

参考文献

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