七姓漢人
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阿知使主(阿知王)については『日本書紀』『続日本紀』『新撰姓氏録』などに日本への帰化についての記録がある。『日本書紀』によれば、応神天皇20年9月、倭漢直の祖の阿智使主と、その子都加使主が、17県の党とともに帰化した。しかし、この時期には漢氏(東漢氏)の祖だという記録は存在しなかった。
『続日本紀』延暦四年(785年)六月の条によれば坂上苅田麻呂は自ら権威を与えるために阿智王の末裔氏族東漢氏出身を称し、漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと述べた[1]。
右衞士督從三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。伏願天恩遣使追召之。乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。永爲公民。積年累代。以至于今。今在諸國漢人亦是其後也。臣苅田麻呂等。失先祖之王族。蒙下人之卑姓。望 。改忌寸蒙賜宿祢姓。伏願。天恩矜察。儻垂聖聽。所謂寒灰更煖。枯樹復榮也。臣苅田麻呂等。不勝至望之誠。輙奉表以聞。詔許之。坂上。内藏。平田。大藏。文。調。文部。谷。民。佐太。山口等忌寸十一姓十六人賜姓宿祢。 - 『続日本紀』延暦四年六月条
『新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、阿智使主と同時期の来日である七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)およびその子孫、桑原氏、佐太氏等と、仁徳天皇の時代に阿智使主が朝鮮半島から連れてきたとされる村主氏が記されている[1]。
七姓漢人
百姓漢人
また、阿知王は百姓漢人を招致し、その末裔には高向村主、西波多村主、平方村主、石村村主、飽波村主、危寸(きそ)村主、長野村主、俾加村主、茅沼山村主、高宮村主、大石村主、飛鳥村主、西大友村主、長田村主、錦部村主、田村村主、忍海村主、佐味村主、桑原村主、白鳥村主、額田村主、牟佐村主、田賀村主、鞍作村主、播磨村主、漢人村主、今来村主、石寸(いわれ)村主、金作村主、尾張の次角村主があるという[2]。