三宅正次 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 1560年(永禄3年)[1]死没 1597年1月22日(慶長元年12月5日)別名 弥次兵衛(通称) 凡例三宅正次時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 1560年(永禄3年)[1]死没 1597年1月22日(慶長元年12月5日)別名 弥次兵衛(通称)墓所 長明寺主君 徳川家康氏族 三宅氏父母 父:三宅政貞、母:鳥居忠吉の娘兄弟 三宅康貞、三宅正次、三宅広勝、三宅正次(同名の弟)妻 一条信龍の娘子 三宅正勝、娘(深津正通の妻)テンプレートを表示 三宅 正次(みやけ まさつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。 元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでの徳川家康の敗走に従い、天正3年(1575年)の長篠の戦いにも従軍[2]。天正10年6月2日(1582年6月21日)の徳川家康の伊賀越えに随行している[3]。 天正12年(1584年)の長久手の戦いでは、高力正長と共に堀秀政の軍を攻め、首級を挙げたが、軍法に違反したとして一時籠居させられた。天正18年(1590年)の小田原征伐では、和議の使者として韮山城に赴いた。その後、武蔵国足立郡指扇領において5000石を与えられた[2]。 慶長元年12月5日(1597年1月22日)、久野宗能の嫡子宗朝の私怨によって殺害された[4][5]。あるいは慶長4年(1599年)に死去ともされる[2]。 脚注 [脚注の使い方] ↑ 『寛政重修諸家譜』巻第千五にて、慶長4年(1599年)死去説の享年が40とされていることからの逆算。 1 2 3 『寛政重修諸家譜』第6輯(国民図書、1923年)巻第千五、p.234-235 ↑ 高柳光寿『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦』 春秋社 1958年 ↑ 太田亮「久野 クノ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2105-2106頁。 ↑ 『寛政重修諸家譜』第8輯(国民図書、1923年)第千四百三十、p.522 参考文献 高柳光寿『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦』 春秋社 1958年 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 久野 クノ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2105-2106頁。全国書誌番号:47004572。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/145 国立国会図書館デジタルコレクション。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles