三川軍一

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三川みかわ 軍一ぐんいち
生誕 1888年8月29日
大日本帝国の旗 日本広島県佐伯郡高田村(現:江田島市
死没 (1981-02-25) 1981年2月25日(92歳没)
日本の旗 日本奈良県生駒市
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1910年 - 1945年
最終階級 海軍中将
勲章 勲一等旭日大綬章
出身校 海軍兵学校(38期)
海軍大学校(22期)
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三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年明治21年〉8月29日 - 1981年昭和56年〉2月25日)は、日本の海軍軍人海兵38期海大22期。最終階級は海軍中将

広島県佐伯郡高田村能美町を経て現:江田島市)で生まれる[1]広島一中を経て、1910年(明治43年)7月、海軍兵学校38期を3位[2]/149名[3]の好成績で卒業[注釈 1]1912年大正元年)12月、戦艦「金剛」乗組。1913年(大正2年)7月、巡洋艦「宗谷」乗組。同年12月、海軍中尉に進級、水雷学校普通科学生。1914年(大正3年)5月、砲術学校普通科学生。12月、巡洋艦「阿蘇」乗組。1916年(大正5年)2月、駆逐艦「杉」乗組。

1916年、海軍大尉に進級。海軍大学校乙種学生(航海)。1917年(大正6年)5月、海軍大学校専修学生。12月、運送艦「青島」航海長。1918年(大正7年)3月、フランスに派遣される。1920年(大正9年)5月、戦艦「榛名」分隊長。同年7月、軽巡「龍田」航海長。1921年(大正10年)11月、巡洋戦艦「生駒」航海長。1922年(大正11年)5月、敷設艦「阿蘇」航海長。12月、海軍少佐へ進級。1924年(大正13年)11月、海軍大学甲種22期卒業。

1928年(昭和3年)12月、フランス派遣。1929年(昭和4年)、国際連盟海軍代表随員。1930年(昭和5年)2月、フランス大使館付武官。同年12月、海軍大佐へ進級。1931年(昭和6年)8月15日、「早鞆」特務艦長。同年12月1日、海軍兵学校教頭に就任。1934年(昭和9年)2月20日、巡洋艦「青葉」艦長。同年11月15日巡洋艦「鳥海」艦長。1935年(昭和10年)11月15日、戦艦「霧島」艦長。1936年(昭和11年)12月1日海軍少将へ進級、第二艦隊参謀長に就任。1937年(昭和12年)11月15日、軍令部第二部長に就任。1939年(昭和14年)11月15日、、第七戦隊司令官に就任。1940年(昭和15年)11月1日、第五戦隊司令官に就任。11月15日、海軍中将へ進級。

1941年(昭和16年)9月6日、第一航空艦隊所属の第三戦隊司令官に就任。一航艦における次席指揮官。同年12月8日、真珠湾攻撃に参加、太平洋戦争勃発。攻撃後、三川は再攻撃の意見具申を行ったが、一航艦長官南雲忠一は予定通り攻撃せず離脱を決定した[5]

1942年(昭和17年)1月20日から22日にかけてのラバウル・カビエン攻略支援に参加。同年3月、ジャワ海掃討戦に参加。4月、インド洋作戦セイロン沖海戦に参加。6月5日から7日にかけてのミッドウェー海戦に参加。7月14日、第八艦隊司令長官に親補される。8月8日から9日にかけての第一次ソロモン海戦を指揮し、敵重巡洋艦部隊を壊滅(撃沈四隻、大破一隻)させる武功を挙げた。この時敵輸送船団撃滅を行わず反転したことに批判もあるが、連合艦隊司令部は三川に対し作戦目標が輸送船団であるとは明示しておらず、友軍機の援護を欠いた状態での、友軍基地(ラバウル)から遠く離れたガ島海域での行動を懸念した三川の判断が公的に問題視されることはなかった。

なお、第一次ソロモン海戦が戦われる8日までにアメリカ軍輸送船団はガダルカナル島への揚陸を完了していず、特に野戦重砲などの重火器は一切揚陸されていなかった[6]。9日、夜が明けると、物資を積んだままのアメリカ軍輸送船団は、残余の連合軍艦艇と共にガ島海域から撤退した[6]。ガ島に上陸したアメリカ第1海兵師団は、航空部隊と水上部隊の援護を受けられず、装備や糧食も不十分な状態で放置された[6]。その状態はアメリカ軍が占領しているガ島の飛行場にF4F戦闘機19機とSBD艦爆12機が進出してガ島上空の制空権をアメリカ軍が獲得し、輸送船団による補給が再開された8月20日まで続いた[6]

1942年11月12日から15日にかけての第三次ソロモン海戦に参加。1943年(昭和18年)4月20日、海軍航海学校長に就任。同年9月3日、第二南遣艦隊司令長官に親補される。1944年(昭和19年)6月、南西方面艦隊司令長官 兼 第13航空艦隊司令長官に親補される。8月、第三南遣艦隊司令長官を兼ねる。11月1日、軍令部出仕。12月、「S事件調査委員会」(空母信濃が米潜水艦アーチャーフィッシュの雷撃に撃沈された件)委員長。1945年(昭和20年)1月、待命。同年5月21日予備役編入。

終戦後は、B級戦犯として巣鴨プリズンに収監される。1947年(昭和22年)11月、公職追放の仮指定を受けた[7]

出所後、東京都新宿区中井練馬区石神井に移り住み、妻きみ・息子夫婦と共に生活する。夏は軽井沢の別荘で過ごすなど、晩年は慎ましく穏やかな余生を過ごした。

1981年(昭和56年)2月25日、奈良県生駒市にて、老衰により93歳で逝去。

年譜

  • 1910年(明治43年)7月 - 海軍兵学校卒業(38期)
  • 1912年(大正元年)12月 - 戦艦「金剛」乗組
  • 1913年(大正2年)
  • 1914年(大正3年)
  • 1916年(大正5年)
  • 1916年 - 海軍大尉に進級、海軍大学校乙種学生(航海)
  • 1917年(大正6年)
  • 1918年(大正7年)3月 - フランス派遣
  • 1920年(大正9年)
  • 1921年(大正10年)11月 - 巡洋戦艦「生駒」航海長
  • 1922年(大正11年)
    • 5月 - 敷設艦「阿蘇」航海長
    • 12月 - 海軍少佐へ進級
  • 1924年(大正13年)11月 - 海軍大学校甲種学生卒業(22期)
  • 1928年(昭和3年)12月 - フランス派遣
  • 1929年(昭和4年)- 国際連盟海軍代表随員
  • 1930年(昭和5年)
    • 2月 - フランス大使館付武官
    • 12月 - 海軍大佐へ進級
  • 1931年(昭和6年)
  • 1934年(昭和9年)
  • 1935年(昭和10年)11月15日 - 戦艦「霧島」艦長
  • 1936年(昭和11年)12月1日 - 海軍少将へ進級、第二艦隊参謀長
  • 1937年(昭和12年)11月15日 - 軍令部第二部長
  • 1939年(昭和14年)11月15日 - 第七戦隊司令官
  • 1940年(昭和15年)
    • 11月1日 - 第五戦隊司令官
    • 11月15日 - 海軍中将へ進級
  • 1941年(昭和16年)9月6日 - 第三戦隊司令官
  • 1942年(昭和17年)7月14日 - 第八艦隊司令長官に親補される
  • 1943年(昭和18年)
  • 1944年(昭和19年)
  • 1945年(昭和29年)
    • 1月 - 待命
    • 5月21日 - 予備役編入

栄典

位階
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1915年(大正4年)11月7日 勲六等単光旭日章[16]
1915年(大正4年)11月7日 大正三四年従軍記章[16]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[17]
1920年(大正9年)7月31日 勲五等瑞宝章[18]
1920年(大正9年)9月7日 勲四等旭日小綬章[19]
1920年(大正9年)9月7日 大正三年乃至九年戦役従軍記章[20]
1920年(大正9年)9月7日 戦捷記章[21]
1927年(昭和2年)9月6日 勲三等瑞宝章[22]
1931年(昭和6年)10月31日 銀杯一組[23]
1934年(昭和9年)4月29日 昭和六年乃至九年事変従軍記章[24]
1938年(昭和13年)8月13日 勲二等瑞宝章[25]
1940年(昭和15年)8月15日 紀元二千六百年祝典記念章[26]
1942年(昭和17年)8月19日 勲一等瑞宝章[27]
1944年(昭和19年)10月12日 旭日大綬章[28]

脚注

参考文献

関連書籍

関連項目

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