早鞆 (給油艦)

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艦種 運送艦[5](給油艦[6])
早鞆
停泊中の「早鞆」(1935年)#写真日本の軍艦第13巻p.17上写真と解説
停泊中の「早鞆」(1935年)[3]
基本情報
建造所 呉海軍工廠[4]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 運送艦[5](給油艦[6])
級名 隠戸型[7]
建造費 予算 3,167,279円(1924年1月時)[8]
母港 佐世保[6]
艦歴
計画 大正10年度[4](大正12年度艦艇補充計画[注釈 1])
発注 1922年1月21日製造訓令[9]
起工 1922年3月14日[10]
進水 1922年12月4日[10]
竣工 1924年5月18日[10][11]
除籍 1947年5月3日
その後 1946年海没処分
要目(主に1925年)
基準排水量 公表値 14,050トン[10]
常備排水量 公表値 15,400トン[10][注釈 2]
満載排水量 15,420トン[6][注釈 3]
軽荷排水量 7,356トン[6]
総トン数 6,988.07総トン[6]
全長 470 ft 9 in (143.48 m)[6]
垂線間長 455 ft 0 in (138.68 m)[6]
最大幅 58 ft 0 in (17.68 m)[6]
吃水 公表値 8.08m[10]
軽荷平均 13 ft 7 in (4.14 m)[12]
満載平均 26 ft 5+916 in (8.07 m)[13]
ボイラー 宮原式水管缶 6基[6][注釈 4]
主機 3段膨張式蒸気機関[6] 1基[10]
出力 5,524馬力[6][注釈 2]
推進 1軸[6]
速力 15.5ノット[6][注釈 2]
公表値 12ノット[10]
経済速力 7ノット[6]
燃料 石炭満載 1,596トン +庫外610トン[6]
重油 1,274トン[6][注釈 2]
航続距離 7,890カイリ / 8ノット[6]
搭載能力 重油 8,375トン[6]
獣肉、魚肉、野菜、氷の各冷蔵庫[6]
乗員 竣工時定員 157名[14]
1928年公表値 160名[10]
兵装 50口径14cm単装砲 2基[6][15][注釈 5]
40口径8cm単装高角砲 2基[15]
(竣工時に砲は装備していない[16])
搭載艇 内火艇1隻、カッター2隻、通船1隻[6]
その他 2トン・デリック4本[6]
トンは全て英トン
計画、公表値は隠戸型給油艦の要目も参照
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早鞆(はやとも)は、大日本帝国海軍特務艦で、隠戸型給油艦の2番艦。艦名は関門海峡の最も狭い「早鞆瀬戸」にちなんで名づけられた[17]

大正12年度艦艇補充計画により、呉海軍工廠1924年(大正13年)5月18日に竣工し、佐世保鎮守府籍となる[18]。竣工後は北アメリカ方面からの石油輸送に従事するが、就役後間もない6月11日、サンフランシスコに向かう途中で主機械が破損する事故が起き、佐世保に引き返す事態となった[19]1925年(大正14年)4月16日には、サンフランシスコ出港の際、桟橋ボラードを破損する事故を起こし、損害賠償として85ドルを支払った[20]1928年(昭和3年)2月4日にも、関門海峡帆船を避けようとして座礁する事故を起こしている[21]

1941年(昭和16年)10月31日付で第三艦隊高橋伊望中将・海軍兵学校36期)付属となり[22]、菲島(比島)部隊第四急襲隊(久保九次少将・海兵38期)に編入されて[23]パラオに進出し[22]、来るべきフィリピン攻略戦に備えた。12月8日の太平洋戦争開戦後、菲島部隊の諸艦艇に対する補給に従事。レガスピ攻略戦では護衛隊に随行し[24]、次いでラモン湾英語版に進出する[25]。12月14日に爆撃を受けて至近弾により損傷するも[22]、作戦が順調に推移したので12月28日にはレガスピを出港して佐世保に向かい[26]1942年(昭和17年)1月16日に佐世保に帰投した[22]。修理後は蘭印作戦、西部ニューギニア攻略戦に従事[22]。8月23日、アンボン沖でアメリカ潜水艦スキップジャック (USS Skipjack, SS-184) の攻撃を受けて損傷する[27]。応急修理の後、11月11日に昭南 (シンガポール)セレター軍港に入港して本格的な修理が行われる[22]。修理を終えて1943年(昭和18年)9月13日に昭南を出港後、パレンバンおよびバリクパパンマニラ間の石油輸送に従事する[22]。しかし、マニラからの帰途[22]の10月9日、北緯05度09分 東経119度18分 / 北緯5.150度 東経119.300度 / 5.150; 119.300の地点を航行中にアメリカ潜水艦キングフィッシュ (USS Kingfish, SS-234) の雷撃により損傷[28]タラカンで応急修理の後、バリクパパンを経て1944年(昭和19年)1月8日にセレター軍港に到着[22]。修理が行われるも機関等が戦闘航海に差支えがあったため[29]リンガ泊地に進出して同地に停泊中の連合艦隊の諸艦艇に対する補給活動に専念した[22]。10月23日にセレター軍港に到着後は行動する事はなかった[22]。また特務艦長長谷部喜蔵大佐(海兵40期[30])は、昭和19年1月16日にアメリカ潜水艦レッドフィン (USS Redfin, SS-272) の雷撃により大破した駆逐艦「天津風」の駆逐艦長を1945年(昭和20年)2月10日まで兼ねた[31]。中破した状態で終戦を迎え、イギリス海軍に接収された後、1946年(昭和21年)に海没処分された[32]1947年(昭和22年)5月3日に除籍。

特務艦長

※脚注無き限り『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長
特務艦長

同型艦

脚注

参考文献

関連項目

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