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三木おろし

1975年から1976年にかけて起きた三木武夫首相への退陣要求 From Wikipedia, the free encyclopedia

三木おろし(みきおろし)とは、1975年から1976年にかけ起こった、第66代内閣総理大臣の三木武夫の退陣を狙った自由民主党内の倒閣運動である。1976年前半の動きを「第一次三木おろし」、1976年後半以降の動きを「第二次三木おろし」ということもある。

三木武夫

概要

1976年に発覚したロッキード事件は、自身の金銭スキャンダルで退陣に追い込まれた田中角栄前首相の新たなスキャンダルと目された。田中の後を襲った三木首相は、徹底追及の構えを見せて検察の捜査の便宜を図り、遂には田中の逮捕に至る。田中に対する三木の常軌を逸した言動に恐怖を抱いた党内主力派閥は倒閣を仕掛け、三木は衆議院解散をちらつかせる等、熾烈な党内抗争が行われることとなった。

経緯

前史

1970年代の自民党内では、三角大福中と呼ばれる五大政治家が自身の派閥を率いて権力の座を争った。

最初に首相の座に就いた田中(七日会)が、狂乱物価による失政と田中金脈問題によって退陣に追い込まれると、後継を巡って大平正芳(宏池会)と福田赳夫(清和政策研究会)との間での対立が起き、三木武夫(番町政策研究所)は脱党および野党との連立をほのめかす荒れ模様となる。最終的には椎名悦三郎副総裁の裁定により三木が後継に選出されるが、三木は自前の派閥が田中、福田、大平三派に次ぐ第四派閥に過ぎなかったことから、一期二年の短命政権に過ぎないというのが大方の見方であった。

第一次三木おろし

1976年2月、ロッキード事件が発覚。三木は発覚直後に「日本の政治の名誉にかけて真相を明らかにする必要がある」との態度を表明し、米国政府への捜査資料の提供を求め、自身もジェラルド・R・フォード大統領へ親書を発出する等、究明に前のめりの姿勢を示す。司法共助協定の締結により資料入手が叶うと、三木は「灰色高官」の名簿の入手と、公開をほのめかす声明を発す[注釈 1]。

三木の声明は、ロッキード事件追及の名のもとに反主流派を脅迫するものであったことから、反主流派は恐怖を覚え、「反・三木」の動きが起こる。椎名副総裁は、ロッキード事件への処理等で三木と意見を異にすることを明言し、更に田中、福田、大平の三者と面談、首相退陣へ向けて足並みをそろえることを確認する。ところが、面談の事実が直後の5月13日付読売新聞ですっぱ抜かれると、三木は「中途半端で私に課せられている使命や責任を放棄するようなことは絶対にない」と声明。これにメディアや世論は椎名工作を「ロッキード隠し」だと批判する。なおも三木のことを「惻隠の情がない」「いつも党外の方ばかり意識して演説する」と憤った椎名が集中砲火に晒される。6月21日、三木と椎名の面会において、ロッキード事件の究明と臨時国会における重要法案の成立を期すことで合意。事実上の三木の勝ちとなって第一次三木おろしは終わる[2]。

第二次三木おろし

7月27日、田中が収賄容疑で逮捕される。三木が検察に指示をしたことは明確であり、田中派は一線を越えた三木に反発。福田派、大平派もこれに同調し、田中逮捕で「ロッキード隠し」の批判は当たらなくなったとして、第二次「三木おろし」を公然と開始した。

8月17日に田中が保釈されると一気に反・三木の動きは燃え上がり、19日には田中・福田・大平三派に交友クラブ(椎名派)、巽会(水田三喜男派)、一新会(船田中派)を加えた六派277名が「挙党体制確立協議会」(挙党協、船田代表世話人)を結成。閣僚の内からも15名が名を連ねており、全員の署名をもって議員総会の開催を要求。三木が要求を拒否すると、挙党協は24日に独自に議員総会を開催し、臨時国会召集前の党の刷新(三木退陣)を「党議」として決定した。しかし一方、挙党協内では、三木退陣後の次期首相擁立について福田と大平の二人のどちらかに絞りきれていない脆さが存在していた。

9月3日、田中派と大平派は、最悪の事態もあるとして在京するよう禁足令を出した。また、同日開催された田中派の合同幹事会(約30人の出席)では、若手議員から三木総裁の解任や党除を求める過激な意見が続出、「最悪の場合は党分裂の覚悟もやむを得ない」との申し合わせも行われて激突が避けられない情勢となった[3]。

三木は「ロッキード事件解明」という世論の支持を背景に衆議院解散とこれに反対するであろう閣僚の罷免をちらつかせて対抗を図る。臨時国会召集を決める1976年9月10日の閣議で三木は会期冒頭での衆議院解散を諮ったが、挙党協に参加している15閣僚は解散署名に拒否する姿勢を示す。三木は閣僚を罷免してまで解散権を行使することはなく、解散を断念して任期満了選挙を選択することとなった。9月14日の両院議員総会で三木が解散を行わないことを宣言して纏めるが、党役員の人事改選で幹事長に三木に近い松野頼三(福田派)が提示されたため反主流派の不満が噴出した。結局三木側が譲歩し、政調会長に提示されていた内田常雄(大平派)が横滑りで就任した[4]。15日に内閣改造と党役員人事を行い[5]、派閥の領袖である福田・大平以外の13閣僚を交代させた。

この後も反主流派は三木おろしを続け、党大会の開催を要求し続けた。幹事長の内田は党内を収めるために三木が平和裡に退陣することを模索し、事務局と党則や議員総会規定などについて連日相談していた。内田が三木と反主流派との連絡を取り、総選挙後に話し合いで決着をつける、という方針をまとめた[6]。

挙党協側では福田と大平がポスト三木を福田とする大福密約を締結、挙党協の総裁推薦候補は福田にまとまる。福田は臨時国会の閉幕と共に閣内から去る。12月に行われた日本国憲法下では初の任期満了による総選挙では、挙党協議員は自民党公認を受けながら、党本部とは別に選対本部を設置し、自民党分裂選挙の様相を見せた。総選挙で自民党は結党以来初めて過半数割れする敗北を喫し(無所属候補の追加公認後に過半数を維持することが出来たが、定員が20増えていたにもかかわらず改選前8議席減と惨敗といってよい結果だった)、三木内閣は責任を取って退陣した[5]。その後、福田が総理総裁に就任、福田内閣が発足した。

三木内閣の陣容

1976年9月10日閣議における閣僚の対応と9月15日の改造内閣の顔ぶれは次のとおり。改造により田中派は閣僚数を1に減らされている(参議院枠の西村尚治を除く)。

さらに見る 役職, 氏名 ...
役職氏名派閥解散
賛否
改造内閣
氏名派閥
内閣総理大臣三木武夫三木派賛成 
副総理
経済企画庁長官
福田赳夫福田派反対留任
法務大臣稲葉修中曽根派賛成留任
外務大臣宮沢喜一大平派反対小坂善太郎無派閥
大蔵大臣大平正芳大平派反対留任
文部大臣永井道雄非議員賛成留任
厚生大臣田中正巳福田派反対早川崇福田派
農林大臣安倍晋太郎福田派反対大石武一中曽根派
通商産業大臣河本敏夫三木派賛成留任
運輸大臣木村睦男田中派反対石田博英三木派
郵政大臣村上勇水田派反対福田篤泰水田派
労働大臣長谷川峻旧石井派反対浦野幸男大平派
建設大臣竹下登田中派反対中馬辰猪福田派
自治大臣
国家公安委員会委員長
北海道開発庁長官
福田一船田派反対天野公義大平派
内閣官房長官井出一太郎三木派賛成留任
総理府総務長官
沖縄開発庁長官
植木光教大平派反対西村尚治田中派
行政管理庁長官松沢雄蔵椎名派反対荒舩清十郎椎名派
防衛庁長官坂田道太旧石井派賛成留任
科学技術庁長官佐々木義武大平派反対前田正男田中派
環境庁長官小沢辰男田中派反対丸茂重貞福田派
国土庁長官金丸信田中派反対天野光晴中曽根派
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その他

  • 田中と三木の因縁は、田中政権時代の1974年、第10回参議院議員通常選挙において三木の地元の徳島県選挙区に田中が刺客を立てて政治生命を脅かしに来たことに始まっており(阿波戦争)、三木の熾烈な田中追及はその報復ととられた。
  • 逮捕直前、検察指揮権者の稲葉修法務大臣(中曽根派)が事態を面白がるかのようなコメントを発し、これが反主流派の反発を強めることとなった。
  • ロッキード解明を掲げて閣僚を罷免してでも衆議院解散を断行していれば、場合によっては野党の力を借りるなどして三木内閣は存続できたとする意見もある。しかし、三木自身は後年において閣僚の罷免を断行してまで衆議院を解散することは、「議会の子」と呼ばれていたこともあり憲政に反するとして、行わなくてよかったと述懐している。
  • 椎名裁定で三木を推挙した椎名が三木おろしに回ったことについて、椎名悦三郎は「産みの親だが、育てるとは言ったことはない」と答えている。
  • 三木おろしの始まりは、三木内閣ができて半年後の1975年春、小林中邸で開かれた園遊会で、小林と永野重雄、椎名副総裁、金丸信国土庁長官が顔を揃え、金丸と椎名が三木への不満を永野に話したことに端を発す(永野重雄#福田内閣実現への第一歩)。
  • 逮捕された田中角栄であるが、「第一次三木おろし」にはそこまで積極的ではなく、積極的であった派内の二階堂進などに表立った行動を控えるように指示した。田中は三木を退陣させると、官僚出身政治家として対極にあり宿敵であった福田を首相にしてしまう恐れがあると考えていたからであったと思われる。しかし、逮捕・起訴後に保釈された際は、三木への復讐を表明し、田中派は「反三木」の一点のみで、福田派と連携をすることになる。田中は、元々協力関係にある大平を首相に擁立したかったとされているが、大福密約を最終的には支持し、福田が首相となった。ある田中派の若手議員はこの時の田中の心境について、「オヤジはやっぱり三木の下では、裁判を受けたくなかったんだなあ」と回想している。
  • 挙党協の代表世話人は船田であったが、実質的に活動の中心的存在であったのは二階堂進、大平派の鈴木善幸、福田派の園田直の3人で「挙党協3人男」と呼ばれた。後に鈴木善幸内閣が「挙党協内閣」と呼ばれるのは、この3人が政権の中枢を占め(鈴木は内閣総理大臣、二階堂は閣僚ではないが自民党三役である総務会長(改造内閣では幹事長に就任)、園田は厚生大臣⇒外務大臣に就任)、三派連合体制をその基盤としているためである。
  • 幹事長だった中曽根康弘は、挙党体制確立協議会のアキレス腱であるポスト三木(三木退陣後、福田、大平のいずれが後継首相になるかを、挙党協は直前まで決められなかった)について、「大福も 夏を過ぎれば 饐える(すえる:腐って酸っぱくなる)なり」と川柳で皮肉った。
  • この抗争中である9月6日に函館空港でのベレンコ中尉亡命事件が勃発したが、政権首脳が三木おろしで忙しくてそれどころではなかったので対処に不都合が生じたという。
  • 三木武夫の秘蔵っ子だった海部俊樹は官房副長官として党内反対勢力に対する解散構想と解散断念を目の当たりにした。15年後の1991年に海部は首相として、三木と同じく党内反対勢力に対して解散構想をする政局になるも、結局解散権を行使できず、またこれを乗り切ることが出来ないまま退陣となった(海部おろし)。
  • 三木おろし時は一回生議員であった小泉純一郎は、29年後の2005年に首相として党内の反対勢力を一掃するため、解散権の行使を決断。解散詔書の閣議決定に署名しない閣僚(島村宜伸農林水産大臣)を罷免してまで解散を断行した(郵政解散)。小泉はこの時の三木について、大勝負で解散できなかったとしている。

脚注

参考文献

関連項目

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