三遊亭遊三 (2代目)
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| 2代目 | |
三遊派定紋「高崎扇」 | |
| 本名 | 渡辺 吉寿 |
|---|---|
| 生年月日 | 1881年1月18日 |
| 没年月日 | 1963年3月23日(82歳没) |
| 出身地 | (現・東京都台東区) |
| 師匠 | 初代三遊亭遊三 初代笑福亭福松 |
| 弟子 | 三遊亭若遊三 |
| 名跡 | 1.三遊亭三治 (1894年 - 1900年) 2.初代三遊亭遊三郎 (1900年 - 1904年) 3.三遊亭若遊三 (1904年 - 1913年) 4.2代目三遊亭遊三 (1913年 - 1956年頃) |
| 活動期間 | 1894年 - 1956年頃 |
| 活動内容 | 江戸落語 |
| 家族 | 初代三遊亭遊三(妻の甥) |
| 所属 | 三遊派 三友派 日本芸術協会 |
| 主な作品 | |
| 『小言幸兵衛』 『夢金』 『子別れ』 | |
2代目 三遊亭 遊三(さんゆうてい ゆうざ、1881年1月18日 - 1963年3月23日[1])は、明治から昭和期の落語家。本名は渡邊 吉寿[1]。
初代三遊亭遊三の妻の甥に当たる[1]。東京浅草の出身[要出典]。
最初は初代三遊亭遊三の門下で三遊亭三寿(または「三次」「三治」)から、1900年に[要出典]三遊亭遊三郎となる(「山の手の玉助の弟子になったのが最初」という自称について『古今東西落語家事典』は確証なしとする)[1]。
後に初代笑福亭福松が上京した時に一門に加わり、大阪にて1904年ごろに三遊亭若遊三と名乗る[1]。若遊三時代は多くの地方巡業をこなす中、一時帰京して1913年6月に人形町末廣で2代目三遊亭遊三を襲名した[1][注釈 1]。
その後再び大阪に赴き、三友派に所属して[要出典]活動する。『古今東西落語家事典』は、1923年ごろまでの上方の寄席看板に「二代目桂三木助、三代目三遊亭圓馬、五代目金原亭馬生、しん蔵[注釈 2]らとならんで(中略)名が散見される」と記す[1]。
1937年に二度目の帰京をする[1]。1956年から1957年ごろに引退した[1]。帰京後の活動について『古今東西落語家事典』は「戦中・戦後は両協会[注釈 3]へ昔日の威勢を売り込んだものの、老兵に席なく」とし[1]、吉田章一は「日本芸術協会に所属していた」とする[3]。引退以後は六本木で生活していた[1]。