上村正之丞
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明治7年(1874年)9月、雲揚艦の乗組員として長崎へ回航し、台湾出兵に備える。明治10年(1877年)に西南戦争が始まると、前の年に海軍少尉補に昇進していた[7]上村は、横浜港から雷電丸 (戦艦)で鹿児島へ向かう[8][9][注釈 1]。
この間、明治8年4月に先進国の海軍を視察するためアメリカ合衆国のサンフランシスコを目指して筑波艦に乗船。帰路、ハワイに立ち寄った[7]。
西南戦争の戦火が鎮まると巡洋艦高千穂に配属、翌明治11年1月17日にはヨーロッパの海路調査のため軍艦清輝(明治9年竣工、897トン国産[10])で横浜を出発[11]、シンガポール海峡を経て地中海、ドーバー海峡を進んだ[11]。
明治26年(1893年)1月26日、愛宕艦長に補される。翌明治27年(1894年)12月9日には海軍大佐任官[12][13]と同時に大和艦長となり、その後、水雷術練習所長[2]、橋立艦長[14]、横須賀水雷団長、呉水雷団長などを歴任し、〈水雷の鼻祖〉と称される[2]。
明治34年(1901年)、海軍少将任官[15]、馬公要港部の初代司令官に就任する[16]。その後、佐世保海軍工廠長などを務め、明治38年(1905年)、海軍中将任官、明治40年(1907年)に予備役に編入された。
1908年(明治41年)3月11日に1階級特進を許され[17]、同月13日、肋膜炎にて没する[4]と、同月17日に宮中より侍従の清水谷実英伯爵(歩兵中佐)が勅使として訪れ弔意の品を届けている[4]。靖国神社へ合祀され、サワ未亡人に恩賜が授けられた[4]。墓所は青山霊園(1イ10-11)[要出典]。
官歴
- 1877年(明治10年)
- 2月26日雷電丸に乗り横浜を出船[19]
- 1883年(明治16年)11月5日 - 任 大尉[20]
- 1891年(明治24年)4月4日 - 任 少佐[21]
- 1892年(明治25年)10月31日 - 任 高千穗副長[注釈 2]
- 1893年(明治26年)1月26日 - 補 愛宕艦長[23]
- 1894年(明治27年)
- 1895年(明治28年)7月29日 - 補 水雷術練習所長[5]
- 1896年(明治29年)11月26日 - 補 扶桑艦長[23][5]
- 1897年(明治30年)
- 1898年(明治31年)9月1日 - 補 横須賀水雷団長[5]
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)
- 1903年(明治36年)
