上田豊三
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上田 豊三(うえだ とよぞう、1937年〈昭和12年〉5月23日 - )は日本の元裁判官[1]。主に民事裁判を担当した他、司法行政にも携わり、最高裁判所判事を歴任した[1][2]。
| 上田 豊三 うえだ とよぞう | |
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| 生年月日 | 1937年5月23日(89歳) |
| 出生地 |
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| 国籍 |
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| 出身校 | 東京大学法学部[4] |
| 任期 | 2002年2月21日 - 2007年5月22日 |
| 前任者 | 千種秀夫[5] |
| 後任者 | 近藤崇晴[6] |
| 任期 | 2000年8月14日 - 2002年2月20日 |
| 前任者 | 岡田良雄[7] |
| 後任者 | 島田仁郎[8] |
| 任期 | 2000年1月31日 - 2000年8月13日 |
| 前任者 | 松本時夫[9] |
| 後任者 | 稲葉威雄[10] |
| 任期 | 1998年3月11日 - 2000年1月30日 |
| 前任者 | 菊池信男[11] |
| 後任者 | 福井厚士[12] |
| 任期 | 1993年11月4日 - 1994年12月20日 |
| 前任者 | 佐藤文哉[13] |
| 後任者 | 今井功[14] |
人物
横尾和子と共に、選挙権の制限は国会の裁量の範囲内として、在外日本人選挙権訴訟の違憲判決に反対した一人[15]。「公正、廉潔、冷静、寛容」を信条としており、数多くの民事裁判を担当した他、司法行政にも携わった[16][17]。
経歴
熊本県立熊本高等学校、東京大学法学部を卒業後、1961年(昭和36年)に第15期司法修習生[1][18]。1963年(昭和38年)4月9日に東京地方裁判所・東京家庭裁判所判事補任官[1]。判事補任官以降の経歴は以下の通り。
- 1963年(昭和38年)4月9日 - 1966年(昭和41年)6月29日:東京地方裁判所・東京家庭裁判所判事補[1]
- 1966年(昭和41年)6月30日 - 1969年(昭和44年)3月31日:最高裁判所事務総局行政局付[1]
- 1969年(昭和44年)4月1日 - 1972年(昭和47年)3月31日:大津地方裁判所・大津家庭裁判所判事補[1]
- 1972年(昭和47年)4月1日 - 1973年(昭和48年)4月8日:東京地方裁判所判事補[1]
- 1973年(昭和48年)4月9日 - 1975年(昭和50年)2月16日:東京地方裁判所判事[1]
- 1975年(昭和50年)2月17日 - 1977年(昭和52年)1月26日:最高裁判所事務総局経理局主計課長[1]
- 1977年(昭和52年)1月27日 - 1980年(昭和55年)1月22日:最高裁判所事務総局経理局総務課長[1]
- 1980年(昭和55年)1月23日 - 1982年(昭和57年)9月30日:東京地方裁判所判事[1]
- 1982年(昭和57年)10月1日 - 1983年(昭和58年)3月31日:東京地方裁判所部総括判事[1]
- 1983年(昭和58年)4月1日 - 1984年(昭和59年)4月5日:司法研修所教官[1]
- 1984年(昭和59年)4月6日 - 1988年(昭和63年)4月4日:司法研修所事務局長[1]
- 1988年(昭和63年)4月5日 - 1991年(平成3年)6月14日:最高裁判所上席調査官[1][19]
- 1991年(平成3年)6月15日 - 1993年(平成5年)11月3日:最高裁判所事務総局総務局長[1][20]
- 1993年(平成5年)11月4日 - 1994年(平成6年)12月20日:前橋地方裁判所長[1][21]
- 1994年(平成6年)12月21日 - 1998年(平成10年)3月10日:最高裁判所首席調査官[1]
- 1998年(平成10年)3月11日 - 2000年(平成12年)1月30日:東京地方裁判所長[1][22]
- 2000年(平成12年)1月31日 - 2000年(平成12年)8月13日:広島高等裁判所長官[1]
- 2000年(平成12年)8月14日 - 2002年(平成14年)2月20日:大阪高等裁判所長官[1]
- 2002年(平成14年)2月21日:最高裁判所判事[1]
- 2003年(平成15年)11月9日:最高裁判所裁判官国民審査において、罷免を可とする票3,979,280票、罷免を可とする率7.01%で信任[23]。
- 2007年(平成19年)5月23日:定年退官[1]
- 2009年(平成21年)4月29日:春の叙勲で旭日大綬章を受章[24]。
主な担当訴訟
東京地裁判事として
最高裁判事として
大法廷判決に対する対応
小法廷判決に対する対応
- 2002年(平成14年)9月24日、柳美里が出版した石に泳ぐ魚のモデルとなった女性がプライバシー権及び名誉権侵害を理由として損害賠償、出版差止めを求めた訴訟で「出版されれば、プライバシー侵害などにより回復困難な損害が生じる恐れがある」として柳及び新潮社の上告を棄却する判決を言い渡したため、損害賠償130万円の支払いと出版差止めを命じた東京高裁の判決が確定した[32]。
- 2003年(平成15年)3月11日、世界(2000年3月号)に掲載された記事について鈴木和雄が名誉毀損を理由に岩波書店などに慰謝料の支払いを求めた訴訟で、岩波書店の上告を棄却する決定を出したため、岩波書店と横田一に慰謝料200万円の支払いを命じた東京高裁の判決が確定した[33]。
- 2004年(平成16年)6月22日、豊田大橋のデザインに関する週刊文春の記事で黒川紀章が名誉毀損を理由に出版元の文藝春秋に損害賠償の支払いと謝罪広告の掲載を求めた訴訟で、黒川が豊田市民にアンケートを行い、半数以上の肯定的な評価を得たことを踏まえて「アンケート結果は信用でき、取材は肯定的な意見を軽視したことが窺える」として文藝春秋の上告を棄却する判決を言い渡したため、文藝春秋に損害賠償600万円の支払いと謝罪広告の掲載を命じた判決が確定した[注 1][34]。
- 2004年(平成16年)9月7日、若築建設事件で受託収賄罪に問われ、控訴審で懲役1年10月・追徴金6000万円の判決を受けた中尾栄一の上告を棄却する決定を出したため、懲役1年10月・追徴金6000万円の判決が確定した[注 2][37]。
- 2005年(平成17年)1月25日、仙台・香川連続保険金殺人事件で殺人罪に問われ、控訴審で死刑判決を受けた被告人Yの上告審で「保険金目的で、悪質、残虐。死刑はやむを得ない」として弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、Yに対する死刑判決が確定した[注 3][40]。
- 2005年(平成17年)9月6日、山形マット死事件で新庄市立明倫中学校1年生の男子生徒Aの両親が元生徒7人と新庄市に対して慰謝料など1億9,300万円の損害賠償を求めた訴訟で、元生徒の上告を棄却する決定を出したため、元生徒7人全員に損害賠償約5760万円の支払いを命じた仙台高裁の判決が確定した[41]。
- 2006年(平成18年)2月14日、右翼幹部ら2人殺害事件で強盗殺人、殺人、死体遺棄罪に問われ、控訴審で死刑判決を受けた被告人Tの上告審で「冷酷かつ非情な犯行。2審の判断は是認せざるを得ない」として弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、Tに対する死刑判決が確定した[注 4][44]。
- 2006年(平成18年)5月31日、強制わいせつ、強姦罪に問われ、控訴審で懲役12年の判決を受けたHysteric Blueのリーダー・ナオキの上告を棄却する決定を出したため、懲役12年の判決が確定した[45]。
- 2006年(平成18年)11月7日、東住吉事件で殺人、現住建造物等放火、詐欺未遂罪に問われ、第一審で無期懲役の判決を受けた内縁の夫Xの上告を棄却する判決を言い渡したため、Xに対する無期懲役の判決が確定した[46]。その後、再審が開始され、2016年(平成28年)8月10日、大阪地裁(西野吾一裁判長)はXに無罪判決を言い渡し、即日確定した[47][48]。
- 2007年(平成19年)3月27日、武富士弘前支店強盗殺人・放火事件で強盗殺人、強盗殺人未遂、現住建造物等放火罪に問われ、第一審で死刑判決を受けた被告人Kの上告審で「逃げ道のない室内で放火し、恐怖に慄いている被害者らを焼き殺した凶悪で残虐な犯行。結果も極めて重大」として弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、Kに対する死刑判決が確定した[49]。
- 2007年(平成19年)6月12日、太州会内部抗争連続殺人事件で殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、死体遺棄、殺人未遂、火薬類取締法違反、覚せい剤取締法違反、傷害罪に問われ、第一審で死刑判決を受けた被告人Nの上告審で「暴力団特有の論理に対する反社会的な犯行」として弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、Nに対する死刑判決が確定した[注 5][50]。