近藤崇晴
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東京都出身[1]。東京学芸大学附属高等学校を経て、東京大学法学部卒業後、1967年(昭和42年)4月に第21期司法修習生[1][7]。1969年(昭和44年)4月に前橋地方裁判所判事補任官[1][7]。甲府地方裁判所・甲府家庭裁判所長、東京高等裁判所部総括判事、最高裁判所首席調査官、仙台高等裁判所長官等を経て最高裁判所判事に就任した[1][7]。
間質性肺炎で闘病中、肺がんを併発。最高裁判事としての執務を継続したが、2010年11月8日、間質性肺炎で倒れ、同月21日、間質性肺炎のため東京都目黒区内の病院で死去[注 1][2]。66歳没[2]。叙正三位、旭日大綬章追贈[9]。後任には12月27日付で広島高等裁判所長官の寺田逸郎が充てられた[10]。
異動履歴
- 1969年(昭和44年)4月8日 - 1972年(昭和47年)3月24日:前橋地方裁判所判事補[7]
- 1972年(昭和47年)3月25日 - 1975年(昭和50年)3月31日:裁判所書記官研修所教官[7]
- 1975年(昭和50年)4月1日 - 1978年(昭和53年)3月31日:札幌簡易裁判所判事、札幌地方裁判所・札幌家庭裁判所判事補[7]
- 1978年(昭和53年)4月1日 - 1978年(昭和53年)7月31日:東京簡易裁判所判事、東京地方裁判所判事補[7]
- 1978年(昭和53年)8月1日 - 1979年(昭和54年)4月7日:最高裁判所事務総局民事局付[7]
- 1979年(昭和54年)4月8日 - 1981年(昭和56年)3月31日:最高裁判所事務総局民事局参事官[7]
- 1981年(昭和56年)4月1日 - 1983年(昭和58年)3月31日:最高裁判所事務総局行政局第二課長[7]
- 1983年(昭和58年)4月1日 - 1986年(昭和61年)3月31日:最高裁判所事務総局行政局第一課長兼第三課長兼最高裁判所事務総局広報課付[7]
- 1986年(昭和61年)4月1日 - 1988年(昭和63年)4月4日:東京地方裁判所判事(民事第13部)[7][11]
- 1988年(昭和63年)4月5日 - 1992年(平成4年)11月1日:司法研修所事務局長[7][12]
- 1992年(平成4年)11月2日 - 1992年(平成4年)11月11日:東京地方裁判所判事[7]
- 1992年(平成4年)11月12日 - 1993年(平成5年)11月3日:東京地方裁判所部総括判事[7]
- 1993年(平成5年)11月4日 - 1999年(平成11年)3月31日:最高裁判所上席調査官[7]
- 1999年(平成11年)4月1日 - 2001年(平成13年)2月20日:甲府地方裁判所・甲府家庭裁判所長[7][13]
- 2001年(平成13年)2月21日 - 2002年(平成14年)2月20日:東京高等裁判所部総括判事(第15民事部)[7]
- 2002年(平成14年)2月21日 - 2005年(平成17年)12月19日:最高裁判所首席調査官[7][14]
- 2005年(平成17年)12月20日 - 2007年(平成19年)5月22日:仙台高等裁判所長官[7][5]
- 2007年(平成19年)5月23日:最高裁判所判事[7]
- 2010年(平成22年)11月21日:間質性肺炎の為に逝去[1][7]。66歳没[1]。
担当審理
東京地裁判事として
- 1988年(昭和63年)1月28日、東京都文京区千駄木3丁目の一角で裏路地の通行権を巡り、小売店主が地上げ屋に対して提訴した訴訟[注 2]で、「昭和26年に土地分譲が行われた際、通行地役権の設定契約がなされたと解される。表口はあったが、商家であったために日常生活上本件通路状部分を通路として使用することは不可欠。原告は本件土地を通行することを妨害しないよう求める請求権がある」として裏路地の通行権を認めた[11]。
東京地裁部総括判事として
- 1993年(平成5年)4月27日、東京女子医科大学病院で心臓カテーテル検査を受けた後に死亡した患者の遺族が検査を行った同病院の医師と東京女子医科大学に対して損害賠償約8000万円の支払いを提訴した訴訟で、心臓カテーテル検査中に患者が脳梗塞を起こしたことから「医師は脳出血の可能性を考え、検査を中止すべきだった」とした上で「死因となった胃の出血は、脳梗塞の意識障害によって、胃にストレスが加わって生じたといえる」として医師と東京女子医科大学に損害賠償約4500万円の支払いを命じた[15]。
- 1993年(平成5年)5月25日、ロス疑惑で公判中の三浦和義が、FOCUSの1992年1月24日号に東京拘置所から東京地裁に護送中の写真を掲載されたことに対して新潮社に慰謝料300万円の支払いを求めた訴訟で、「肖像権の侵害にあたる」として新潮社に慰謝料30万円の支払いを命じた[16]。
- 1993年(平成5年)9月21日、業績改善のために株の財テクで失敗したビル賃貸会社の経営陣に対し、株主の繊維会社が約2億9500万円の損害賠償を求めた訴訟で、「経営陣は株価の下落で経営が危機的状況に陥る可能性を予測できたのに、株式市場の好況に惑わされ過大な借入金を投資に回して取引を続け、取締役としての注意義務を怠った」として原告の請求通りビル賃貸会社の経営陣に損害賠償約2億9500万円の支払いを命じた[17]。
東京高裁部総括判事として
- 2001年(平成13年)8月20日、交通事故で死亡した11歳の少女についての損害賠償請求につき、逸失利益の算定方法について、性別だけで将来の収入を予測するのは「合理的な理由のない差別だ」とした上で「高校卒業までか、少なくとも義務教育終了までの女子には、全労働者平均を用いるのが合理的だ」として従来の算定方法を見直して逸失利益を約400万円高くした一審・東京地裁の判決を支持した[18]。
- 2002年(平成14年)1月16日、早稲田大学江沢民講演会名簿提出事件で早稲田大学の学生ら6人がプライバシー侵害などを理由に1人当たり33万円の損害賠償を求めた訴訟で、「学生らに予め名簿提出を告げて同意を得ようとしなかったのは手抜かりだ」として請求を棄却した一審・東京地裁の判決を破棄、早稲田大学に学生1人当たり1万円、計6万円の損害賠償の支払いを命じた[19]。
最高裁判事として
大法廷判決に対する対応
- 国籍法3条1項は憲法14条1項に違反するか。多数意見(違憲・補足意見有)[20]
- 2007年参議院選挙の議員定数配分規定(いわゆる一票の格差の問題)が問われた2009年9月30日大法廷判決において、合憲とする多数意見に反対し、反対意見として「4年後に施行される次々回の参議院議員通常選挙までには、憲法の要求する投票価値の平等を他の政策的目的ないし理由との関連において調和的に実現するために、参議院議員の選挙制度の抜本的見直しを行うことが、憲法の要請にこたえるものというべきである。次々回の選挙もこのような抜本的な見直しを行うことなく施行されるとすれば、定数配分規定が違憲とされるにとどまらず、前記事情判決の法理によることの是非が検討されることになろう。」と述べ、選挙無効を裁判所が主張する可能性について言及した[21][22]。
小法廷判決に対する対応
- 2007年(平成19年)11月12日、京都大学アメフト部レイプ事件で集団準強姦罪に問われた京都大学のアメリカンフットボール部(京都大学ギャングスターズ)の男性部員1人について、上告を棄却する決定を出したため、懲役4年6月とした二審・大阪高裁の判決が確定した[23]。
- 2008年(平成20年)3月11日、国立マンション訴訟でマンション事業者の明和地所が国立市に対し、営業を妨害された等として損害賠償と地区計画条例の無効を求めた訴訟で、国立市の上告を棄却する決定を出したため、損害賠償2500万円の支払いを国立市に命じた二審・東京高裁の判決が確定した[24]。
- 2009年(平成21年)6月25日、2006年(平成18年)9月13日に京急本線の品川駅-京急蒲田駅間の下り快特電車内で高校生の女子生徒に痴漢行為をしたとして、東京都迷惑防止条例違反に問われた経済評論家・植草一秀の上告を棄却する決定を出したため、植草に対する懲役4月の実刑判決が確定した[25]。
- 2010年(平成22年)1月19日、坂本堤弁護士一家殺害事件や地下鉄サリン事件などオウム真理教事件で一・二審で死刑判決を受けたオウム真理教幹部・新実智光に対して「古参幹部という立場で、松本死刑囚から指示を受け、大部分の犯行において積極的な実行者として重要な役割を果たした」とした上で「独自の宗教観から自己の行為が正当であると述べ、その非を真に認めようとはしていない」として上告を棄却する判決を言い渡した[26]。その後、2月16日付で判決訂正申立を棄却したため、新実に対する死刑判決が確定した[27]。