下り酒
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輸送手段は船による海上輸送で、はじめは菱垣廻船で木綿や醤油などと一緒に送られていた[1]。酒を含め、菱垣廻船を利用する問屋は難破や抜荷などに悩まされており、その対策として元禄7年(1694年)に江戸十組問屋という寄合いが発足し、菱垣廻船を支配下においた[2]。
だが、酒は品質劣化が早いという問題や、酒だけは海難時の負担が造り酒屋側となるという危険負担の違いがあり、享保15年(1730年)には酒問屋が江戸十組問屋を脱退し、専用の樽廻船によって輸送されるようになった[3]。
廻船の運航は、大坂から江戸まで元禄年間ごろまでは平均30日を要した。昼は陸から離れすぎないように走り、夜が近づくと最寄の港に入れ、風雨の日は港で待機し、天候がよくなってから再び出港するといった按配であったので、所要日数は著しく不安定で、早ければ10日というときもあり、遅ければ2ヶ月近くかかるときもあった。 しかし江戸時代後期に向けて、航海技術の進歩や港の整備などにより所要日数はしだいに短縮されていき、幕末の時点では平均10日にまでなったという[要出典]。
こうした廻船も、毎年の新酒のときだけは夜も休まず特急便で運行された。一つの酒造年度で最初に江戸へ下る酒荷を積んだ船を新酒番船といい、西宮・大坂(文化2年(1805年)以降は西宮のみ)の港から鉦(かね)や太鼓に送られて一斉にスタートし、品川沖で伝馬船に乗り継ぎ、新川の江戸酒問屋への一番乗りを競った[4]。新酒番船の際は、おおむね5日程度の所要時間となっていたが、1790年(寛政2年)には58時間で到着したという記録も残されている[5]。一番乗りした船乗りは「惣一番」としての名誉を得られるのみならず、一番乗りした酒は1年間高値で取引される、一番乗りの船は「惣一番船」として荷役で優先されるなどの実利も伴い[4]、また勇壮な競走の様子そのものも注目の的となり、二代広重が「江戸名勝図会」の中で「新酒番船江戸新川入津図」として描いている[5]。
時代により変動があるが、下り酒の7割から9割は、摂泉十二郷(せっせんじゅうにごう)と呼ばれた、伊丹や灘の周辺地域で産した酒であった。それ以外では山城、河内、播磨、丹波、紀伊で造られた酒、あるいは中国ものと呼ばれ伊勢湾沖で合流する伊勢、尾張、三河、美濃で造られた酒が、下り酒として江戸に入っていった[要出典]。
廻船は、天候次第では運行が困難になる場合もあった。1807年(文化四年)7月には、嵐が続いたため酒船の入津が途絶え、江戸市中から酒が無くなったとする記録がある[6]。