平野 (大阪市)
大阪市平野区の地区で、かつての摂津国南部の環濠都市・商業都市
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概要
現在までつながる平野の歴史は飛鳥時代に聖徳太子(厩戸皇子)が全興寺を開基したことではじまり、次いで平安時代、坂上広野麻呂が領する荘園「杭全荘」として開発された。中世には鎌倉仏教の先駆けであった融通念仏宗総本山・大念仏寺が開山し、門前町となる。さらに坂上家庶流の平野七名家を始めとした「年寄衆」が合議制を行うようになり、戦国時代には和泉国堺との関係も深い「先進自由都市」となった[1]。安土桃山時代には商人が大坂城城下町の「平野町」へ移住を強いられたが、大坂の陣後は商都[注釈 2]として復興。繊維業関連の工業が発達し、俳諧・連歌の隆盛や、民間学問所であった含翠堂などに見られるように、文化都市としての側面も併せ持った[1]。明治維新後には平野紡績や平野銀行が設立されるなど近代化し、大阪市編入後の大大阪を形成する一助となった。戦後も複数の映画館や銀行支店が集積する市街地であった。
現在の平野は平野区役所がある同区の中心街でありながら、環濠都市・商都としての残滓が残る地域で、歴史風致を活かした平野町ぐるみ博物館などの活動も行われている。また、大阪市内最大規模の地車祭り・平野郷夏まつりの舞台である[1]。
地理
平野郷の旧市街地は、平野区の北部、平野川西岸の自然堤防上に広がり、周囲は旧大和川が繰り返した氾濫によって形成された氾濫平野である[2][3]。周辺には古代より官道が通じていて、613年(推古天皇21年)に大和朝廷が整備したとされる「渋川道」(渋河道)がこの付近を通っていた[4]。この渋川道は後に難波津・難波京と斑鳩・平安京を結ぶ竜田越奈良街道(大坂街道)へと継承され、天王寺から平野までの区間は特に「平野道」と呼ばれた[5]。
奈良街道以外の街道では、八尾街道、中高野街道などが通過している。八尾街道は竜田越奈良街道から分岐し、久宝寺・八尾の寺内町を経て、再び竜田越奈良街道に合流する街道で[6]、中高野街道は、高野山参詣道路・高野街道のひとつであり、喜連・松原方面へと南下し、河内長野市で西高野街道と合流して高野山へと至った[7]。北方向には守口で京街道に接続し、高野山参詣のみならず大坂・京都方面との通交にも利用された。[5]。現在でも、これらの街道に概ね沿った国道25号(竜田越奈良街道)および大阪府道5号(八尾街道)がある。
地形の成り立ち
平野が立地する大阪平野東部(河内平野)は、縄文時代前期(約6000 - 7000年前)の縄文海進のピーク時には「河内湾」と呼ばれる内海であったと考えられており、その海岸線は生駒山地の西麓にまで及んでいた[8]が、その後淀川・大和川が運ぶ土砂の沖積作用によって河内湾はしだいに埋まり、弥生時代中期以降に河内湖が形成され、さらに土砂の堆積が続いた結果、長い歳月をかけて現在の沖積低地が形成された[9]。平野川も現在は大和川の支流であるが、かつては狭山池から流れていて、大和川付替えによって狭山池と寸断された[10]。
歴史
古代

かつて摂津国住吉郡杭全郷(杬全郷)を支配した豪族・杭全氏の領域の東部にあたるのが平野で[11]、飛鳥時代にはすでに聖徳太子が建立したとされる全興寺(平野薬師)が存在し、その門前に人家が集まる門前町を形成していた[12]。
「平野」という地名が用いられるようになるのは平安時代以降のことで、征夷大将軍坂上田村麻呂の次男である坂上広野が当地に荘園である杭全荘を朝廷から授けられたことに由来するという逸話が定説である[5]。広野は嵯峨・淳和の二帝に仕えて右兵衛督に至り、828年(天長5年)に没するまで杭全郷に永住した。後世、広野麻呂の「広野」が転訛して「平野」となったとされ、広野の子孫である坂上氏宗家は代々平野殿と称されるようになった[13]。平野殿は洛外の平野に住みながら貴族としての生活を送り、一般人と通婚することはなく、養子なども冷泉家などの洛中貴族からもらっていた[14]。
862年(貞観4年)には、広野の子の坂上当道が八坂神社を勧請して素戔嗚尊などを祀り、現在の杭全神社(熊野権現社)の起源となる祇園社を創建した[15][16]。杭全神社は坂上家の氏神とされ、牛頭天王社とも称された[17]。また、広野の妹の慈心大姉(坂上春子)は桓武天皇の后となって葛井親王を儲けた後、出家して長寳寺を開基している[18][19]。
広野が賜った杭全荘は平野殿が代々領有していたが、不輸不入の特権を得るべく、名目上摂関家の所領となった[20][21][22]。宇治平等院の建立にあたり、藤原頼通が永承年間にこれを寺領として寄進したとされるが、実際に平等院領として文書上に確認できるのは1281年(弘安4年)以降であり、寄進はその以前という事しか定かでない[23]。これ以降、織田信長の直轄地となるまでの約500年間、杭全荘は形式上は平等院領であり続けた[23]。なお、喜連村との境界をなしていた長大堤防はこの平等院の荘園であったときに築かれたために「平等堤」との名がついているほか、今川にかかる橋梁も「平等橋」と称するなど、各所に平等院の名が残っている[14]。
中世

平等院は平野荘現地の豪族を田所職に任じて実際の経営に当たらせていたが、田所職は次々と転売され、1394年(応永元年)には大徳寺塔頭の如意庵に渡るに至った[23]。如意庵が農民から土地の買い取りを行って影響力を増す一方、住民らは杭全神社の宮座を足場として惣を結成して発言力を強め、平等院の支配は衰えて事実上の地下請が行われるようになった[5]。
1127年(大治2年)、鳥羽上皇の勅願により大念仏寺が平野に開基された。比叡山延暦寺で修行した天台宗の僧・良忍(聖応大師)が、四天王寺参籠の折に聖徳太子から「平野の地に念仏道場を建てよ」という旨の霊夢を得たことにより開いたものであるとされ、坂上家の私邸内にあった菩提寺・修楽寺の別院を道場としたことが起源である[26]。良忍が創始した融通念仏宗は、「一人の念仏が万人の念仏に通じ、自他の念仏が相互に融通して大きな力となる」という教義を持ち、浄土宗など鎌倉仏教の先駆けとなった。融通念仏宗は日本で最も古い念仏宗派であり、大念仏寺もまた日本初の念仏道場である。しかし大念仏寺は第6世・良鎮が1182年(寿永元年)に没した後、後継者に恵まれず法統が139年間中断し、1321年(元亨元年)に法明が第7世として中興するまで、寺勢は振るわない時期が続いた[26]。北川央は、平野研究において自治都市・環濠都市という都市史的側面が強調されてきた傾向を指摘したうえで、杭全神社の熊野信仰や融通念仏宗の「聖地」という視角からも平野を読み解きうると論じている[27]。北川はまた、杭全神社と関係の深い長寶寺に伝わる「よみがえりの草紙」が信濃の善光寺縁起と類似することから、融通念仏宗の本山である大念仏寺がこの地に成立した背景にも、こうした中世的なよみがえり信仰の広まりを想定すべきであるとも述べた[27]。
南北朝時代の平野は、坂上氏を通して婚姻関係のあった津守氏の住吉大社とともに南朝側に味方した。1321年(元亨元年)、中興した法明のもとで熊野三所権現を杭全神社に勧請合祀し、後醍醐天皇から「熊野三所権現」の勅額を授けられている[28]。また室町時代にも、畠山政長の正覚寺城も隣接していたために、応仁の乱などで戦場となることがたびたびあった[29][30]。
- 1482年(文明14年)3月 - 幕府の命を受けた管領・政長と細川政元の連合軍が、義就追討のために河内へ出陣。しかし義就は同年7月16日、政元と単独で和睦を結んで政元軍を撤退させた。政長は撤退せずに河内に留まり義就との抗争を継続し、同年8月27日、政長軍が平野へ討入った[29]。
戦国時代

戦国時代に入ると、平野は市街地の周囲に二重の濠と土居を巡らせた[11]。この木戸と地蔵の組み合わせは城郭の虎口のような防衛機能を果たした。後述の大坂の陣で平野は全焼しているため、戦国時代当時の環濠と現存する環濠遺跡との関連性は詳らかでないが、1583年のイエズス会宣教師による記録にも存在を示唆する記述があり、平野は当時から城塞のような環濠都市であった[31]。
江戸時代は坂上氏の庶流と伝わる「平野七名家」が統治機構を独占することとなるが、戦国時代の平野は「長衆(おとなしゅう)」あるいは「年寄衆」と称す機構による統治が行われていて、年寄衆は七名家のみが独占したものではなかった[32]。この長衆あるいは年寄衆について、1513年(永正10年)12月26日付けの杭全神社改修棟札には、長衆34名と烏帽子着衆(若衆)239名が見えるほか、1557年(弘治3年)には、畿内を支配した戦国大名・三好氏の家臣である本庄加賀守と松永孫六に対して代官の辞職と自治権を求め、「年寄衆」17名が一味同心する連判状が記されている[32]。
年寄衆の一人であった明鎮が光永寺を建立すると、浄土真宗本願寺派の教線のもとで、ある程度寺内町的な性格も備わった[33]。一向宗を信ずる「平野衆」200人程度が石山本願寺と大坂寺内町の普請に赴いた記録もある[34]。しかし住民の全員が浄土真宗の信徒であったわけではなく、他に大念仏寺、長寶寺、杭全神社などの社寺が存在していたことから、これらの寺社が多元的に「宗教都市」としての平野を構築していたとされている[33]。
平野商人で末吉氏の末吉利方(平野勘兵衛)は戦国時代後期、野堂町の本家「東末吉家」に対して分家の「西末吉家」を興し、外洋船舶6隻を以て畿内から東国間の廻船業を展開していた[20]。利方は徳川家康に岡崎城主のころから親しく、家康含め筒井順慶など諸国の大名から自由航行や自由出入の権利を得ていたという[20]。また上杉景勝家臣の直江兼続は、東西の末吉家それぞれに対して上杉領国内での商業活動を保障する書状を個別に発給していた[27][注釈 4]。なお、末吉家が織豊時代以降も秀吉によって150石の、家康によって摂河泉3万石の代官に任ぜられており、七名家の中でも筆頭の家となっている[20][35]。
平堺同盟
織田信長が台頭するころ、平野の年寄衆は、同じく環濠都市・自由都市であった堺の会合衆と深い関係を構築していた。平堺同盟(へいかいどうめい)とも称すこの関係について、豊田武は中世ドイツのハンザ同盟や、イタリアの都市国家群に類する都市同盟的なものであるとしている[22][38]。
足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、石山、堺、平野など畿内の諸都市に対して現代の20数億円に相当する2万貫の矢銭を要求した[33]。石山はただちに上納したものの、堺は一戦も辞さぬとして、1568年(永禄11年)に救援を求める書簡を平野へ送っている。この書簡はある都市の共同体が他の都市に対して送った文書(都市間外交文書)として日本史上稀であるとされる[22][38][33][36]。
安土桃山時代
織田信長は平野を直轄地に組み込みながらも一定の自治の継続を認め、課税面でも他の都市より優遇する方針をとった[39]。豊臣政権に代わってもこの待遇は続いたが、大坂城の築城に際して豊臣秀吉が商業都市の機能を城下に集約しようとした際に、伏見や堺と同様に末吉氏を含む平野商人も大坂城下へ強制的に移住させられ、この様子は『吉田兼見卿記』にも和泉堺至平野見物、当在所悉天王寺へ引寄也
と記された[36][40]。秀吉の強制移住策によって平野商人が移された先は平野町(ひらのまち)と称し、船場の平野町と上町の平野町(のちの東平野町、現在の東平)の二つがあった[41][40]。
当時の平野については、ナバラ王国出身で、ポルトガルから渡航したイエズス会宣教師であるルイス・フロイスの目にも留まり、1584年1月20日(天正11年12月8日)付けの本国に向けた書簡[40][42]で「甚だ富んだ人達の町」や「甚だ好い町」として、次のように述べている(旧字体は新字体に改めた)。
堺の向ふ一レグワ半の所に甚だ好い町がある。悉く竹を以て囲まれ城の如くなつてゐて、平野 Firano と称する。尊師と一緒にキリシタン訪問の為め堺より八尾 Yao に行つた時通過した。
甚だ富んだ人達の町であるが、大坂の商業と繁栄の為め羽柴は彼等にも移住せんことを求めた。 — ルイス・フロイス
村上直次郎 訳註『耶蘇会の日本年報 第1輯』より[43]
大坂の陣の直前の段階では、平野は高台院領に属していたものの、利方の要望によって代官は置かれず、町人による自治が継続した[20]。関ヶ原の戦い(1600年)においては、利方は西軍についた東末吉家を諌めて東軍に与し、戦後ただちに家康と面会して戦勝を祝した[20]。これに感激した家康は『平野庄及六箇村軍勢乱暴狼藉堅制禁』を発布して平野での乱暴狼藉を厳禁し、利方はさらに伏見「銀座」を設立してその年寄役となるなど、江戸幕府の内政にも関与した[20]。
大坂の陣

1614年(慶長19年)から1615年(慶長20年)にかけての大坂の陣では、利方が徳川方に積極的な協力を行ったことで平野に徳川秀忠の陣が設けられたため、平野も主戦場の一つとなった[44]。大坂冬の陣の最中、1614年(慶長19年)11月5日、豊臣方の薄田隼人が、徳川方への内通を疑って西末吉家当主の末吉吉康・東末吉家当主の末吉増重ら七名家の人物を大坂城へ拉致するとともに、平野に対して焼き討ちを行った[44]。この戦火により、平野に関わる多数の文献・記録が灰燼に帰した[44]。
大坂夏の陣においては平野から天王寺にかけての広範囲で、徳川方15万5000人・豊臣方5万5000人の大軍が入り乱れる激戦が展開された[44]。
夏の陣で敗走した真田信繁(真田幸村)が徳川家康の追跡を逃れるため、平野の樋尻口地蔵に爆薬を仕掛け[45]、信繁の予想通り家康が樋尻口地蔵で休息をとったが、尿意を催した家康が厠に席を外した隙に爆発したため、家康は難を逃れたという伝説がある[44][45]。この爆発で吹き飛ばされた地蔵の首は全興寺まで達し、首地蔵として現在も境内に祀られている[44]。また、徳川方の旗本であった安藤正次は平野の合戦で負傷したために願正寺で自刃した[44]。
近世
江戸時代を通じて平野は法制上在方であったものの、実態としては商工業都市であった[5][29][20]。街路には繰綿問屋をはじめとした各種問屋が軒を連ねて問屋街を形成し、摂河泉諸国から集まる木綿の集散地でもあった[5][22][46]。その流通網は独自のもので、最盛期には「天下の台所」大坂の二十四組問屋や江戸の十組問屋を介さず、平野から江戸へ直積み(直接販路)を確立し、また製綿・繰綿に加えて酒造業・製薬業も営まれた[21][5][46]。
野堂町政所筋に設けられた惣会所を拠点として惣年寄が統治を主導し、本郷の各町には町年寄を長とする町会所、散郷には村年寄を長とする自治機構が整備されていた[5][47]。一方、幕府は平野に大坂や堺のような町奉行を置かず、今井町と同様の惣会所が統治する形式であった[48][49]。一方、七名家は惣年寄などの上位役職を独占することで平野の支配を保ち、この体制が後述の改革が行われるまでつづいた[50]。なお、七名家からは後述する朱印船貿易で著名な末吉吉康のほか、大坂の道頓堀開削を主導した成安道頓も輩出されている[51] [52]。
天領時代


1615年(元和元年)、利方の孫にあたる末吉吉康と、その親戚の平野藤次郎は、平野および河内国志紀郡・河内郡の代官および旗本に任じられ、徳川家直属の武士として帯刀を許された[53]。同年、吉康は大坂の陣で焦土と化した平野の復興を精力的に主導し、環濠を再び掘り直させて1616年(元和2年)3月に復興した。また夏の陣後に荒廃していた大念仏寺についても、吉康が1615年(元和元年)に寺地を寄進し、それまで一定の場所を持たなかった大念仏寺がようやく現在地に堂宇を構えた[26][54]。また、大坂の陣で埋められた中世の環濠を再び掘削しなおし、13ヶ所の出入口にはそれぞれ門と門番屋敷を設置して平野十三口と称した[55]。門の脇には地蔵堂も建てられ、現在も12の地蔵堂が残っている(詳細は「平野十三口」を参照)。
吉康とその息子末吉長方、平野藤次郎をはじめとした平野商人は、朱印船貿易を行っていた[51] [56] [57]。末吉家の朱印船は末吉船と呼ばれ、1604年(慶長9年)から1634年(寛永11年)の30年間に渡航した朱印船22船中、半数以上にあたる12船が末吉船であった[53]。末吉船は安南・東京・シャムなどへ渡航して輸出入貿易を行い、渡航の安全を祈願するため杭全神社と坂上田村麻呂が建立した清水寺に絵馬を奉納した[53]。1635年(寛永12年)の徳川家光による日本人の海外渡航禁止令(いわゆる鎖国令)の施行によって海運収入が激減したため、度重なる洪水に苦しんでいた志紀郡柏原村の復興策として1636年(寛永13年)に柏原村と大坂城下を結ぶ柏原舟を平野川の環濠と連結させ、河内と大坂城下の物資輸送ルートを整備した[53]。長方は柏原船を70隻建造し、自費で水路や堤防などの設備にも投資を行ったという[53][58]。
なお末吉家による代官統治は、銀座年寄からの退任も重なって代官職務が重荷となったために元禄年間(1688年 - 1704年)をもって終了し、以降末吉家は小普請の旗本となった[53]。
1702年(元禄15年)、本郷七町とその西方に位置する今林村・新在家村・今在家村・中野村の散郷四村が統合されて平野郷町が成立し、野堂町に平野郷町の惣会所が設置された[59][20][60]。1708年(宝永5年)には、鎌倉時代に始まったとされる杭全神社の連歌所が再建された[61]。この連歌所は現存するものとしてはごくまれで、書籍や主張によっては日本唯一とすることもある[62]。杭全神社では1987年(昭和62年)に連歌会が再度復活して以降、定期的に平野法楽連歌会が催されている[62]。
1717年(享保2年)には、七名家の一つ土橋家の当主・土橋友直と同志5名(土橋宗信・成安栄信・徳田宗雪・間元之進・井上正臣)によって、大坂初の民間人による学問所(第三種郷学)で、「学問所」の名称を使用した最古の私塾である含翠堂(原野学問所)が開設された[54][63]。含翠堂は当初「老松堂」と称した私塾で、井上正臣の家を借りて儒経書講読・国学・医学・算術・礼法などを教授し、「入学の節は貴賎を選ばず師弟の盃あるべし」と定めて身分を問わず門戸を開いた点が特徴的であった[54][64]。維持費はすべて地域有志の出資と積立てで賄われ、飢饉の際には粥の炊き出しなど住民への救済活動も行うなど、他の教育施設には見られない特色を備えていた[64][54]ことに加え、含翠堂の設立には富永芳春や三輪執斎、三宅石庵なども関与し、この三人を含めた五同志による大坂懐徳堂の設立に影響を及ぼした[64][65]。含翠堂は1872年(明治5年)の学制発布まで155年間にわたって活動を続け、学制発布の後は大阪市立平野小学校に継承された[54]。世界大百科事典は含翠堂を、「知識的不平等におかれた民衆の啓蒙を意図して民間に発生した文化サークル運動から出発して,恒常的な学校設立の活動となったもの」と論じている[66]。
平野郷町の人口が記録上で最も多かったのは、1706年(宝永3年)の1万686人であった[67]。この人口1万人程度という記録は和泉佐野と同規模で、一般に人口1千人から5千人程度であることが多かった在郷町のなかでは突出していた[68]。しかし18世紀以降には大坂が経済の中心となっていき、近隣の平野もその衛星都市として組み込まれることとなり、人口は減少の一途を辿った(詳細な人口推移については「人口」節を参照。)[67]。
古河藩統治下
平野は江戸時代初期より江戸幕府直轄地の天領であったが、1762年(宝暦12年)以降は古河藩領となった[69][70]。1781年(安永10年)には古河藩による遠国統治の拠点として、陣屋が現在の大阪市立平野小学校の地に設けられた[69][70]。
1795年(寛政7年)に惣年寄見習である取締役に就任し、1811年(文化8年)惣年寄へ昇進した林市左衛門は、七名家以外から登用された異例の人物であった[71]。これに対して末吉家の菩提寺である光源寺が強く反発し、惣年寄に光源寺檀家(末吉家)以外の人物が就任することは「仕来り」に反するとして大きな論争となった[71][注釈 5]。当時の光源寺院主・光薗院は不祥事を抱えた人物であり、困窮する寺の権威回復を急ぐ中での反発であったと考えられている[71]。最終的には古河藩と東本願寺の調停によって光源寺の要求は退けられ、市左衛門は20年間にわたって惣年寄を務め上げた[71]。
安政の改革
安政年間(1855年 - 1860年)にかけて断行された安政の改革では、七名家による役職独占の是正・惣会所の権限縮小・中核町人層への政治参加の拡大・本郷および散郷各町の財政的自立といった施策が推進された[69]。
改革は1855年(安政2年)12月、古河藩から担当として任じられた笠井堅太郎・牧山譲助両名が陣屋にて惣年寄へ改革内容を言い渡すことで始まった[47]。翌1856年(安政3年)正月、当時の惣年寄7名(末吉永五郎・末吉勘四郎・末吉平左衛門・中瀬傳次郎・中瀬九兵衛・土橋七郎兵衛・惣年寄見習の三上馬之助)が「改革御受書」を提出して正式に受け入れた[47]。改革は行政・財政・祭事の三分野に及んだ[47]。
行政面では年貢上納を惣会所経由から各町村の直接上納へ切り替え、惣年寄の下役および各町の町代を廃した[47]。財政面では京都奉行所への年頭御礼費用や各種接待宴席が惣年寄の自費あるいは廃止とされた。祭事面では氏神祭礼の運営が惣会所から「祇園講」という講仲間組織へ移管された[47]。
同年12月に笠井・牧山が初年度の勘定を精査した結果、惣年寄7名が複数の違反を犯していたことが判明し「御詫書」が提出された[47]。その後1857年(安政4年)から1858年(安政5年)にかけて過去25ヶ年分の惣会所勘定が全面的に精査され、長年の財政上の疑惑が解消された時点をもって改革は完結した[47]。
幕末

文久3年(1863年)、倒幕を目指す尊王攘夷派が起こした武装蜂起・天誅組の変に関連して、その背後で活動した人物が平野郷に潜伏し、自刃したという伝承が残っている[72]。
天誅組の変の主将は公卿中山忠光(中山忠能の七男)であったが、中山忠能の兄にあたる中山忠伊も運動に参画していた。光格天皇の密勅を賜ったとも伝わる忠伊は、王政復古と倒幕の志を抱いて全国を行脚し同志を募り、1863年(文久3年)には甥の中山忠光を主将として天誅組を組織し、大和国での挙兵に至らしめた[73]。
天誅組は文久3年8月17日に大和国五條代官所を襲撃して「五條御政府」を称したが、翌18日に八月十八日の政変が京都で起きて尊攘派が一掃されると、挙兵の名分を一気に失った[73]。幕府から追討令を受けた天誅組は山中での転戦の末に劣勢となり、9月24日、大和国鷲家口での幕府軍との交戦でほぼ壊滅した[73]。主将の忠光は包囲を辛くも脱して長州藩へ落ち延びたが、翌1864年(元治元年)11月15日に萩藩の刺客に暗殺された[73][74]。こうした事態を受け、運動の黒幕と目されていた忠伊もまた幕府の追手が迫る中、各地を潜伏して逃れて平野に落ち延びたものの、結局は満願寺にて辞世の句を詠み、1864年(元治元年)2月10日自刃した[72]。水郡庸皓はこの自刃について「正史に載っていない」として、公式の史書では十分に扱われていないことを指摘している[75]。
今日かぎり 平野の露と消ゆる身も 心に懸かる 国の行末[72]—中山忠伊
近代
1879年(明治12年)に散郷四村が分離し、1883年(明治16年)には本郷七町もそれぞれ平野を冠称して行政上分離した[30]。その後1889年(明治22年)の町村制施行に伴って本郷七町が合併し、自治体としての平野郷町が発足した[59]。散郷四村のうち今林村・新在家村・今在家村は桑津村と合併して北百済村、中野村は砂子村・鷹合村・湯谷島村と合併して南百済村の各一部となった[30]。
江戸時代より綿作と繰綿業で周辺の綿作地帯の中心地として発展を遂げてきた平野であったが、末吉家当主の末吉勘四郎と末吉平三郎が1887年(明治20年)6月7日に平野紡績を設立したことで、近代工業化への転換が始まった[53]。尼崎紡績の設立に深く関わった菊池恭三は当初平野紡績の工場長として出発した人物であり、平野紡績がヨーロッパへ留学させたことで日本の近代紡績技術の確立に貢献した。菊池恭三は紡績工場での実地研修や紡績機械の発注などを行い、帰国後に平野紡績支配人兼工務部長に就任した[53]。のちに平野紡績と尼崎紡績は合併して大日本紡績(ニチボー、現ユニチカ)となった[53][76]。
1914年、初代阪堺電気軌道によって郊外南西部の南海平野 - 今池間を結ぶ平野線が開業した[77]。当時の南大阪は依然として稲作や綿作を営む農村地帯であったが、平野線の開業が住宅地の造成を促し、郊外化への大きな契機となった[78]。なお平野線には線内完結の運用が存在せず、すべての電車が阪堺線(恵美須町方面)や上町線(天王寺駅前方面)に直通していた[78]。
1925年(大正14年)、平野郷町は大阪市へ編入された[11]。同年編纂された『南大阪編入記念誌』は平野郷町について、
更に平野郷町は喜連村の北方に位し 附近は勿論河内方面に通する交通の要路に當り 従つて古くより人家密集して一の邑地をなし 風に發達して市街をなし街巷[注釈 6]四通し 附近農産地の中心地にして 殊に南海平野線の開通以來交通の便を増す
(先の文に続き)と雖も 割に人口の増殖を見ること少なく 明治九年に既に人口七千を有したれども 今尚ほ一萬六千を有するに過ぎず
と記し、周辺で最も人家が密集して市街地が発達していると記されつつも、1876年(明治9年)時点で7千人(江戸時代には1万人超)を数えた人口が、それから約40年を経た大正14年時点でも1万6千人にとどまっていることを指摘しており、大大阪時代を迎えていたにもかかわらず人口増加が緩やかであったことがわかる[79]。
1927年(昭和2年)、平野流町に大阪府女子師範学校(大阪第一師範学校女子部)が近代校舎を新設して当時の南区天王寺から移転し、後に大阪学芸大学を経て大阪教育大学平野分校となった[80]。大学自体は柏原の新設キャンパスに移転したものの、附属の小学校・中学校・高等学校は現存する。1930年(昭和5年)から土地区画整理事業が本格化し、平野郷の周囲を取り囲んでいた田園地帯の宅地化が進むにつれて、環濠の大半が埋め立てられていった[81]。
1934年(昭和9年)9月21日には室戸台風による暴風雨に見舞われ、平野小学校の木造校舎が強風によって倒壊するなど多数の死傷者を出した[82]。第二次世界大戦では、周辺の中河内郡瓜破村・三宅村(現・平野区瓜破・松原市)がアメリカ軍による空襲を受けたのに対し、平野は戦禍を免れ、平野中央本通商店街のアーケードをはじめとした多くの建造物が破壊されることなく戦後に引き継がれた[83]。
平野郷町
沿革
- 1884年(明治17年) - 当地に連合戸長役場が置かれ、長居村などを管轄していた[30]。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、住吉郡平野馬場町、平野泥堂町、平野市町、平野野堂町、平野流町、平野背戸口町、平野西脇町が合併して平野郷町が発足。大字平野野堂に町役場を設置[11]。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡の統廃合により、所属郡が東成郡に変更[30]。
- 1922年(大正11年) - 中心部に以下の町名が起立[30]。
- 住吉町
- 中町
- 上町
- 元町(1 - 7丁目)
- 宮町
- 浜町(1 - 3丁目)
- 京町(1 - 6丁目)
- 新町(1 - 6丁目)
- 本町(1 - 6丁目)
- 三十歩町(1 - 3丁目)
- 梅ケ枝町(1 - 6丁目)
- 政所町(1 - 5丁目)
- 田畑町
- 1925年(大正14年)4月1日 - 大阪市第2次市域拡張により、新設の住吉区に編入される。同日平野郷町廃止[11]。
- 1930年(昭和5年) - 北西部に平野西之町・平野大通の町名が起立。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 住吉区から東住吉区が分区[11]。同区の一部となる[11]。
- 1974年(昭和49年)7月22日 - 東住吉区から平野区が分区[11]。同区の一部となる[11]。新区名は投票の結果1票差で「平野区」が「大和川区」を上回り、新区名に決定した[11]。
町長一覧
現代

平野は東住吉区の中心市街地であり、東住吉区役所も平野地区に設置されていたが、第3次市域拡張による区域の拡大から区を分割することとなった[11]。議論の結果平野側が東住吉区から分離することとなり、1974年(昭和49年)7月22日をもって平野区が成立した[11]。平野区の区域と区名を定めるにあたって、平野・喜連にあたる摂津国側と、新たに市域となっていた河内国側で論争がおこったため、摂津国側の主張する「平野区」と河内国側の主張する「大和川区」で投票が行われ、わずか一票の差で「平野区」に確定したという経緯がある[11]。
昭和時代当時の平野について、北川央は「僕ら河内の農村に生まれ育った人間からしたら、平野っていったらすごくまぶしい町だった」「僕らからしたら平野というのはものすごい都市だった」とし、月刊『大阪人』で平野郷の特集を担当した際は「平野は大阪の下町や」という編集委員会の方針に異を唱え、「かなり怒った表情で、むきになって強く反論した」と述懐している[27]。藤江正謹も「南河内のほうから、『平野の町に行けば何でもそろうよ』ということで、南海電車のターミナルも本当に混んでいました」と述べ、かつて並んでいた専門店の数から「平野の町全体でデパート(百貨店)だった」と評した[27]。
1980年(昭和55年)11月27日、大阪市営地下鉄谷町線の天王寺 - 八尾南間10.5キロメートルが延伸開業し、平野区内には平野・喜連瓜破・出戸・長原の4駅が新設された。この路線は、南海平野線の軌道直下にほぼ並走する形で建設されたものであり、それまでバス路線にしか交通手段がなかった長吉方面を含む平野区と大阪都心部とを直結した。谷町線の開業に伴い、1914年(大正3年)の開通以来「ちんちん電車」の愛称で66年間にわたって地域の足を担ってきた南海平野線は最終運行日となった27日に全線が終日無料開放され、翌11月28日をもって廃止となり、その歴史に幕を下ろした。廃線跡地は1983年(昭和58年)4月に「プロムナード平野」と名付けられた遊歩道として整備され、平野停留場のホーム上屋の鉄骨を転用した藤棚や実際に使用されていた車止め、旧駅舎の八角屋根をかたどったモニュメントなどが設置された[84]。隣接する商店街は、現在まで「平野南海商店街」を名乗り続けている。
谷町線の開通により、旧来の商業地域であった平野郷一帯においても人口構成や生活様式の変化が進み、町並みの伝統的な性格が失われることへの危機感が地域内で高まっていった。こうした問題意識を背景に、「平野の町づくりを考える会」が中心となって1993年(平成5年)から取り組みを開始したのが平野町ぐるみ博物館である[85]。建築学者・西山夘三が平野を「街全体が博物館」と評したことに由来する活動で、旧平野郷の本郷七町に相当するエリアの個人住宅や商店・寺院の一部を、各所有者みずからが館長となって地域に開放するという形式をとり、「幽霊博物館」「へっついさん博物館」「小さな駄菓子屋さん博物館」など、住民の個性と暮らしに根ざした15館が順次設けられた[85][86]。各館は原則として毎月第4日曜日を開館日とし、8月には「博物博芸スペシャルデー」と称する特別開館が催される[85][87]。千葉県佐原においても「佐原まちぐるみ博物館」という同様の取組みが開始されている[88]。
1999年(平成11年)からは大阪市HOPEゾーン事業によって平野郷の景観復元と文化保存への取り組みが行政主導でも本格化し、大阪市による景観保護条例も定められた[89]ほか、7月には町づくり博物館が「臨時館」の開館を募り、その結果100館の参加を果たした[86]。同年から開始されたドイツ・ハンブルク市オッテンゼン地区との交流の一環として、Brigitte Krause 氏はまちぐるみ博物館を題材としてドキュメンタリー映画を制作し、2001年に封切りを迎えた[86]。
2019年(令和元年)9月の第25回国際博物館会議(ICOM)京都大会においては、オフサイトミーティング会場として平野が選ばれ、「平野会議」が開催された[86]。
一方、こうした保全努力にもかかわらず、2020年代以降は歴史的建造物の建て替えが相次いで進み、商業地域から住宅街へとその役割を変えつつある。
都市構造
江戸時代半ば頃の中心市街地・平野本郷(ひらのほんごう)七町は約1キロメートル四方で、大坂や堺と同様の碁盤目状を呈した。現行の地割は元和年間(17世紀初頭)のものであると考えられている[90]。本郷の周辺には、枝郷である平野散郷(ひらのさんごう)四村もあった。現在、古い街並みは北西部の馬場町と南東部の出屋敷町に多く残存している[91]。
平野本郷は七つの町に区分され、それぞれを坂上氏の庶流と伝わる平野七名家の一門が治めていた[11]。以下、江戸時代時点における平野本郷と平野散郷の体制を示す。
- 本郷七町
- 馬場町(成安氏):平野馬場・平野上町周辺
- 泥堂町(則光氏→黒瀬氏〈井上氏〉):平野宮町・平野元町・平野上町周辺
- 市町(利国氏→土橋氏):平野市町周辺
- 野堂町(野堂氏→末吉氏):平野本町・平野東周辺
- 出屋敷町:平野東周辺(野堂町内)
- 流町(利則氏→三上氏):流町周辺
- 背戸口町(安国氏→辻葩氏):背戸口周辺
- 西脇町(安宗氏→西村氏):西脇周辺
- 散郷四村
環濠
かつての平野はその周囲に堤防と堀を張り巡らした環濠都市でもあり、郊外の周囲4キロメートル四方に環濠を配していた[92]。土居は高さと幅ともに1間以上(約2メートル)で、堀は幅4間ほど(約7メートル)だったという[92]。環濠の正確な形成時期は不明であるが、戦国時代に堺をはじめとした周辺の都市・集落でも環濠が造成されていることから、平野についても同時期のものであると考えられている[92]。
堀には幅が広くて池のようになっている箇所があり、東から時計回りに松山池、流池、藤七池、道白池、今堀池、殿堂池(新池)、殿堂蓮池(弁天池)、お茶池、河骨池、関東池と呼ばれた[92]。堀の水路は平野川とつながっていて、特に河骨池は、江戸時代には柏原船の港湾機能を果たした[92]。しかし堀は現代に至るまでにほとんどが埋め立てられて、現在も残るのは杭全神社付近と赤留比売命神社付近のみである[92]。現存箇所および遺構は平野環濠都市遺跡として保存されている[92]。
平野十三口
郊外との出入りについては平野十三口という13の関所が担い、それぞれに門、門番屋敷、地蔵堂が建てられ、通行人の警備にあたった。明治時代に門と門番屋敷は鎮台への行軍の妨げとなってすべて撤去されたものの、地蔵堂については全13尊のうち12尊が現存している[55]。
| 名称 | 場所 | 街道(方向) | 備考 |
|---|---|---|---|
| 河骨池口 | 河骨池門筋・御旅通 | (玉造・天満) | |
| 市ノ口 | 市ノ門筋 | 八尾街道 東口(久宝寺・八尾) | |
| 樋ノ尻口 | 樋尻筋 | 奈良街道 東口(八尾・奈良) | |
| 出屋敷口 | 出屋敷門筋・政所筋 | (葛井寺・道明寺) | |
| 田畑口 | 田畑門筋 | 古市街道(藤井寺・道明寺) | |
| 流口(南口) | 残在橋筋(流門筋、お渡り筋) | 中高野街道 南口(喜連・瓜破・高野山) | |
| 堺口 | 梅ヶ枝筋 | 八尾街道 西口 住吉堺道 | |
| 西脇口 | 西脇門筋・地蔵小路 | ||
| 田邊道西脇口 | 新町筋・稲荷小路 | 田辺道・住吉街道(田辺) | |
| 小馬場口 | 興正寺筋・稲荷小路 | (散郷四村) | |
| 馬場口 | 馬場門筋 | 奈良街道(大坂) | |
| 泥堂口 | 泥堂筋(泥堂門筋) | ||
| 鐘辻口(社内入口) | 御幸筋 | 杭全神社参道・中高野街道 起点 | (現存しない) |
人口
| 年次 | 竈数 | 人口 |
|---|---|---|
| 1704年(宝永元年) | 2543 | 9272 |
| 1706年(宝永3年) | 2665 | 10686 |
| 1708年(宝永5年) | 2663 | 10626 |
| 1721年(享保6年) | 2645 | 10534 |
| 1727年(享保12年) | 2683 | 10623 |
| 1732年(享保17年) | 2836 | 10484 |
| 1747年(延享4年) | 2340 | 9150 |
経済・産業
繊維業
繊維業、とくに繰綿は、平野を代表する産業であった。江戸時代、摂河泉で収穫された棉花は平野の問屋が買い取り、繰綿に加工したうえで各地に流通させていた[97]。最盛期には「天下の台所」大坂の問屋を介することなく江戸までの直販路を確立している[97]。当時は、一反の河内木綿は三反の大和木綿に匹敵するという意で「大和の三反、河内の一反」と称された[98]。平野も棉花の商業都市というだけではなく、全耕地面積の62%を綿作地が占めていて、稲作の水田にも「半田」と呼ぶ手法を用いて稲作と綿作とを両立させるなど、河内木綿の生産地でもあった[98]。
名産品
繊維業を除くと、酒造業や製薬業が主であった。平野郷の江戸時代における名産品は、1763年(宝暦13年)発行の地図『攝州平野大繪圖』に詳細に記されている[95][96][98]。
- 平野酒
- 平野の地酒であり、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が京都・醍醐寺において催した盛大な醍醐の花見にも献上された。地図中には「織田信長公御免」の文字が見え、信長から特別の販売許可を与えられたことが示されている[99]。この酒は現代に一度復刻され、大阪府による「大阪産もん」にも認定されたが、2021年(令和3年)をもって生産を終了した[99]。
- 平野酒は「平野の黄金水」を用いて酒造されていて、良質な湧き水であった。現在は飲用されることはないものの、井戸が平野公園北側に残っている。
- 平野飴
- 管の形をした飴で、漢方生薬の地黄を主原料とする薬飴である。1754年(宝暦4年)刊の産物図会『日本山海名物図会』には「摂州 平野飴 大坂 天王寺の東、平野ノ町より出る 飴 名物也 風味よし 小児に用ひて毒なし 薬 地黄煎なり」と記されていて、児童用の薬としても用いられていた[100]。また、江戸では「下りぎょうせん」として評判を博していた。『攝州平野大繪圖』には「太閤秀吉公御免」とあり、秀吉から販売の御免を得ていたことが記されている。
- 平野茶柄杓
- 茶道において湯をくむ際に用いる柄杓で、『攝州平野大繪圖』には「始祖有楽は利休時代の茶の名人也」と記されている。茶人・千利休は平野商人・末吉利方と知己であり、その縁あって平野においても茶道が広く盛んであった[53]。
平野蒟蒻(コンニャク)および平野薬(産薬)も盛んであった。また、平安時代以来の歴史をもつ中野小児鍼師も、江戸時代当時は平野の散郷であった[101]。
文化
連歌
平野総鎮守である杭全神社は連歌の神でもある。『杭全神社連歌所記』によれば、杭全神社の連歌は鎌倉時代に始まり、平野七名家を中心として室町時代に盛んになったという[102]。
平野の連歌は宮座を基盤とした神事としての性格を持つ「法楽連歌」であり、杭全神社の年中行事でもあった[102]。連歌会のために設けられた建造物である連歌所は室町時代に建立されたが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際に破却された[102]が、後に江戸時代中期の1708年(宝永5年)となって再建されたものである。現存する連歌所の規模は桁行4間半・梁行2間半、入母屋造本瓦葺きで、12畳の主室と4畳の控の間を備える[102]。大阪府内では江戸時代、堺天神菅原神社、佐田天満宮、大阪天満宮、住吉大社、開口神社などにも連歌所が存在したが建物として残るものは他になく、この連歌所は一説に日本で現存する唯一の連歌所であり[103]、1999年(平成11年)からは大阪市指定有形文化財に指定されている[102][62]。
連歌は江戸時代を通じて法楽連歌として続けられたが、明治時代以降は廃れていった[14]。1987年(昭和62年)に研究者を中心とした有志が連歌の復活を図り、以後、毎月定期的に平野法楽連歌会が催されるようになり[102]、1999年(平成11年)からはインターネット連歌も開始された。現在も定期的に奉納連歌を催す神社は、全国で杭全神社と福岡県行橋市の須佐神社に限られる[14]。
俳諧
江戸時代、日本各所では連歌から発展した文芸である俳諧が盛んとなっていたが、これは連歌の旺盛な平野においても例外ではなく、「白うるりの道節」と通称された末吉道節をはじめ、多くの俳人がいた[104]。道節は東末吉家第四代当主として平野を統治する傍らで、京の松永貞徳・斎藤徳元・山本西武から俳諧を学んだ。貞徳とは「身に成る談合人」として親交を深め、西武の出版した俳書『鷹筑波』には五十五句を納めた[104]。
道節以降も末吉宗久・土橋宗静など俳諧の徒を七名家を中心に輩出し、十七世紀中頃の平野俳諧は大坂・京・堺に次ぐ地位にあり、平野は町人文化が高度な文化都市としての立ち位置を得るに至ったとされる[105]。高瀬梅盛『鸚鵡集』、松江重頼『懐子』など当時の歌集にも、平野の俳人による句が多く載る[105]。
茶道
安土桃山時代、わび茶を大成した茶人・千利休は、豊臣秀吉の側近として政界にも影響力を持つ人物であったが、末吉家の末吉利方とも親しく交流した[20]。利休が大坂城内の茶室建設を秀吉から依頼されて手がけたことを報告する天正11年(1583年)3月8日付の『末吉勘兵衛宛利休書状』が現存している[20]。
明治時代にも、平野紡績会社の工場(大日本紡績平野工場)附属の学校では茶道教育が行われていたとの記録が残っている[30]。
その他
祭事
万部おねり
毎年5月1日から5日の5日間、融通念仏宗総本山大念仏寺において万部おねり(まんぶおねり。正式には阿弥陀経万部法要)が催される[107]。同法要は、1127年(大治2年)に鳥羽上皇の勅願により良忍上人が創建した日本最初の念仏道場たる大念仏寺において、1321年(元亨元年)に第7世法明が大和国当麻寺の練供養を範として始めたことに由来する[107]。法要では阿弥陀経を一万部読み上げる大法会が修せられるとともに、人が命尽きたときに阿弥陀仏の二十五菩薩が迎えに来るという来迎の様子を体現した練り行列が行われる[107]。
行列の次第は、稚児行列・踊躍歓喜の念仏・詠讃歌舞が先払いをして本堂に入堂した後、鉦を合図に雅楽が奏でられる中、蓮華座・旗・琴・太鼓など持物が異なる二十五菩薩が本堂外陣に架け渡された来迎橋を渡御する[108]。渡御の後、本堂内では菩薩が次々と花を添える「菩薩伝供」の儀が執り行われ、参詣者は合掌して先祖供養を願う。行事は2002年(平成14年)に大阪市指定無形民俗文化財に指定されており、大念仏寺最大の法要である[109]。
平野郷夏祭り

毎年7月11日から14日の4日間にわたり、杭全神社を中心に平野郷夏祭り(ひらのごうなつまつり)が斎行される。その起源は平安時代に遡り、悪疫・地震・雷などの天災を鎮めるために始まった祇園会(ぎおんえ)が次第に祭礼としての形を整え、江戸時代中頃から神輿・太鼓台・地車を中心とする現在の形式に整備されたものである[110]。現在、杭全神社に宮入する地車は9台を数え、これは旧平野郷の本郷を成す野堂町が野堂北組・野堂南組・野堂東組の三組に分かれ、残りはそれに馬場町・泥堂町・西脇組・背戸口町・市町・流町を加えた9町に対応するものである[111]。記録上確認できる最古の地車は1745年(延享2年)製作の馬場町初代地車であり、現存する地車のうちでは1845年(弘化2年)製の市町の地車が最も古い[112]。また記録されている人出は約30万人で、大阪市内では最大規模の地車祭りである[113]。
11日には太鼓台足洗い・神輿足洗いが執り行われ、神輿は樋之尻橋たもとのお祓い所において祓い清められた後、杭全神社第一本殿の御神体たる素戔嗚尊が神輿に遷される神遷神事(かみうつししんじ)が深夜に行われる[112]。12日には日中各町がそれぞれ自町内を曳行したのち、夜には南港通において9台の地車が一斉に集結する九町合同曳行が催される。提灯の灯がともった9台の地車が約30分にわたって競演する様は、祭りの最初の大きな見どころである。13日には日中の町内曳行に続き、夕刻19時頃から約30分間隔で9台の地車が順次杭全神社へと宮入する宮入(みやいり)が行われる。国道25号「宮前」交差点前において各町が趣向を凝らした演出を披露しながら猛速で曳行する場面が最大の見せ場となり、鳥居前での一連のパフォーマンスは全町の宮入が終わる深夜まで続く[114]。14日は神事としての性格が強く、第一本殿の素戔嗚尊を奉じた神輿がその年の神輿当番町(宮入2番町)によって担がれて氏地を渡御し、太鼓台当番町(宮入1番町)がふとん太鼓を担いで神輿渡御の先触れを務める。これらの当番町は毎年9町が持ち回りで務めている[112]。ふとん太鼓の巡行終了をもって神輿がお宮に還御し、夏祭りが閉幕する[112]。
2020年・2021年は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行に鑑み開催が見送られたが、2022年以降は例年通り斎行されている。かつては平野散郷の杭全町(現・育和地区)も参加していた時期があった[115]。
盆踊り
平野は、河内音頭の一流派である平野節の初音家一門の発祥の地として知られる。大正中期、平野郷の音頭取り倉山太三郎は、北河内の音頭取り2代目歌亀の「歌亀節」に感銘を受け、川口栄太郎・出野丑松らと協力して新しい河内音頭を開発した。この際に生み出された「返し節」は一節の長さを自在に調節できる工夫を取り入れたもので、河内音頭に広く用いられている[116]。1921年(大正10年)頃から平野を中心にこの新しい音頭を広めるようになった倉山太三郎らは後に初音家の芸名を名乗り、他の流派の音頭取りたちはこの音頭を「平野節」あるいは「平野音頭」と呼んで区別した[116]。初音家初代宗家・初音家太三郎の編み出したこの節回しは寄席の演目としても人気を博し、江州音頭や浪曲など諸芸との融合・影響を受けつつ、河内音頭を発展させた[116][11]、初音家一門の音頭の発祥の地であることから、平野公園(松山公園[117]。二代目宗家・初音家賢次は歌手中村美律子(初音家みつ子)の師匠としても知られる[118]。 旧平野郷は行政上摂津国に属しており厳密には「河内」の地ではないが[11]。初音家一門の音頭の発祥の地であることから、平野公園(松山公園[119])の園内には「近代河内音頭発祥の地」と刻まれた石碑が建立された。毎年夏季には同公園のグランドに櫓が組まれ、初音家一座を招いて盛大な盆踊り大会が執り行われている。
地域

旧市街地は平野区北部に位置し、元和年間(17世紀初頭)に整備されたとされる碁盤目状の街路構造を現在もおおむね保っている[90]。1978年(昭和53年)実施の住居表示では以下の町丁が旧市街地に概ね対応する。
- 平野上町(1 - 2丁目)
- 平野元町
- 平野馬場(1 - 2丁目)
- 平野北(1 - 2丁目)
- 平野宮町(1 - 2丁目)
- 平野市町(1 - 3丁目)
- 平野東(1 - 4丁目)
- 平野本町(1 - 5丁目)
- 平野南(1 - 4丁目)
- 流町(1 - 4丁目)
- 平野西(1 - 6丁目)
- 背戸口(1 - 5丁目)
- 西脇(1 - 4丁目)
街並みと景観保護

北西部の馬場町(平野馬場)や泥堂町(平野上町)には旧家・老舗商家・土蔵が比較的まとまって残り、南東部の出屋敷町(平野東)周辺も近世以来の短冊状の地割を留めている[91]。旧市街地の中心軸をなす平野中央本通商店街とサンアレイ平野本町通商店街は全興寺の山門前から東西に延びるアーケード商店街で、第二次世界大戦の空襲を免れたことにより戦前からの建物が部分的に残存している[59]。旧市街地の外周にあたる旧環濠の線形は、現代の道路・水路・緑地に一部読み取ることができ、環濠から転用された道路には意匠が施されている[92]。また、杭全神社付近と赤留比売命神社付近には合計200メートル程度の堀が残存している[92]。
1999年(平成11年)より大阪市のHOPEゾーン事業が適用され、平野郷の歴史的景観の復元と文化保存への取り組みが本格化した[120]。道路舗装の石畳調整備・統一意匠の街路灯・歴史案内板の設置など、旧市街地の修景が一体的に進められ、大阪市は景観保護に関する条例を定めて建築物の外観規制も行っている[121]。一方、2020年代以降は老朽化した歴史的建造物の建て替えが相次ぐようになり、かつての商業地としての性格を失いつつある街区が増加している。
平野の神社・寺院・住居が同一街区内に混在する景観を見て、外国人来訪者からはしばしば「他の日本の地域でも一般的な光景か」と問われることがあるという[27]。
地域博物館

1998年(平成10年)に開設された平野町ぐるみ博物館は、旧平野郷の各所に点在する民家・商家・寺院・工房などを独立した展示室(分館)に見立て、それぞれの家や店に伝わる生活道具・職人技・歴史資料・祭礼用具などを住民みずからが来訪者に披露する、分散型の地域博物館である[122]。
河川
教育
1717年(享保2年)に七名家の土橋友直らが開設した大阪初の民間学問所・含翠堂は、1872年(明治5年)の学制発布まで155年間にわたって存続し、その教育的機能は現在の大阪市立平野小学校に継承された[54]。
1927年(昭和2年)には旧流町に大阪府女子師範学校が新設移転した[123]。戦後の学制改革を経てこれを前身とする大阪教育大学平野分校が設けられ、大学機能が柏原市に移転した現在でも大阪教育大学附属平野小学校・大阪教育大学附属平野中学校・大阪教育大学附属高等学校平野校舎の三校が所在し、小中高一貫の教育を展開している[124]。
交通
鉄道


平野地区にはJR西日本とOsaka Metroの2社が乗り入れており、いずれも「平野」を冠する駅が設けられている。
かつては南海平野線が旧市街地南西部に設けられた南海平野駅を起点として天王寺・恵美須町方面へ延びており、初代阪堺電気軌道が1914年(大正3年)に開業した[78]。が、1980年(昭和55年)のOsaka Metro谷町線南伸開業に伴って廃止された[125]。南海平野駅の跡地は「プロムナード平野」として、西平野駅の跡地は背戸口公園の緑道「南海電車ひらのみち」として整備・保存されている。
路線バス
主要道路
- 国道25号 - 旧奈良街道(渋川道)の系譜を引き、旧市街地の北縁をほぼ東西に貫く。幅員狭小な街路に代わり、大正時代、十大放射路線計画の一環として、平野の市街地を貫くバイパスが建設された。
- 国道479号(大阪内環状線) - 旧市街地の西側を南北に走る。
- 大阪府道5号大阪港八尾線・大阪府道186号大阪羽曳野線(南港通)
旧街道
寺社
- 神社
- 仏教寺院