賀茂御祖神社
京都市左京区にある神社
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概要
祭神
現在の祭神
現在の祭神は以下の通りである[3]。
古代に成立した『風土記』・『本朝月令』では、祭神を賀茂建角身命・玉依姫命とするが、中世末期から近世を通じて、こうした根本伝承とは異なる祭神論が展開される[4]。
古代・中世の祭神
平安時代中期の『神祇官勘文』では、神名を「御祖多々須玉依媛」と記し、もう一柱の賀茂建角身命は記されていない。「御祖」とは父母、祖先への敬称であるため、祖先神を意味する[4]。また「多々須」は、正邪を明らかにするという意味の「糺す」「正す」の字が当てはめられ[4]、当社神域の「糺の森」の名称の由来となった[5]。
室町時代後期の『諸社根元記[注釈 1]』では、玉依姫命とその夫大山咋神を祭神とするが、本来の賀茂神話では玉依姫命の夫神については特定していない[5]。大山咋神は秦氏の氏神松尾大社の祭神で、秦氏本系帳の伝である『本朝月令』では、大山咋神を玉依姫命の夫神として松尾・賀茂両社の関係を述べている[5]。『諸社根元記』は『本朝月令』にみえる松尾神話に基づいて、祭神の一柱を大山咋神とする説を示したのである[5]。
文明4年(1478年)、吉田兼倶の『二十二社註式』において、当社の祭神を賀茂別雷命母の「日依日咩」(玉依姫命)、父の「大己貴神」と記された[6]。しかし、同じく兼倶の著作『延喜式神名帳頭註』では、大己貴神の子大山咋神が祭神となっており、同一人物の著作ながら矛盾している[6]。また、室町時代の成立とされる『大日本国一宮記』では、大己貴神とされている[6]。このように、中世末期にいたって吉田神道に関係する書から祭神の異説が生まれたとされる[6]。
近世の祭神
江戸時代に入るまで、社家の祭神観については具体的な史料がなく不明であった[7]。明和4年(1767年)に社中より提出された『賀茂御祖皇大神宮御由緒書』によると、西本殿に神武天皇、東本殿に皇后の五十鈴姫が祀られたとする[7]。さらに、江戸時代後期とみられる『賀茂皇大神宮略記』に以下のように祭神が明記される[8]。
近代の祭神変更
大政奉還後、当社はさまざまな変革を迎えるが、祭神を神武天皇・五十鈴媛命とする考えは変わらなかった。しかし、明治時代に社家制の廃止にともない、新しい官選大宮司のもと祭神改正が実行された[9]。『風土記』逸文などの史料を典拠として、東西本殿の祭神をそれぞれ玉依姫命・賀茂建角身命に変更する注進書を教部省に提出した[9]。祭神の変更に反対の動きはあったものの、その後も再提起されることはなく、戦後にいたって現在の祭神が明記されてからは揺るぎない[10]。
歴史
当社は京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝によると、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという[11]。その地には現在当社の境外摂社・御蔭神社がある[12]。『本朝月令』によると、天武天皇6年(677年)に高野川と加茂川の合流する河合の地域に社殿を造営したのが当社の始まりであるという[11][13]。また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある[1][13]。
肥後和男説によると、上賀茂神社の分社であった三井社(三身社)が下鴨神社の前身であるといい[14]、現在ではこの説が有力視されている[15]。『風土記』には、賀茂建角身命・伊可古夜日売・玉依日女の三柱が、蓼倉里の三井社に鎮座していたとの記述がある[16]。他の逸文によると、三柱を祀るため三身社と称したのが、三井社と訛ったという[注釈 2][16]。井上光貞説でも、奈良時代前期まで「賀茂社」といえば現在の上賀茂神社だけで、賀茂社が上社と下社に分かれたのは天平末年から天平勝宝の間であるとしている[17]。
分社の理由は明らかでないが、賀茂社に対する国家の宗教政策であったとされる[17]。奈良時代の賀茂祭は、大衆が押し寄せるほどの盛大なもので、朝廷にとっては治安上の脅威となっており、しばしば祭礼に対して統制を加えることもあった[17]。そして、天平18年(746年)頃に三井社を独立させて下鴨神社とし、国家がその経済を保護するに至った[18]。
上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂御祖神社二座」として名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載される。弘仁元年(810年)以降約400年にわたり斎院が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。
平安時代には『源氏物語』や『枕草子』などにしばしば登場するように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えた[1]。また、平安時代末期になると全国に60余か所もの荘園、御廚が寄進されて当社を支えた。しかし、戦乱の世になっていくにつれ、各地の荘園からの連絡は絶えていった[1]。
明治の近代社格制度でも伊勢神宮に次いで、上賀茂神社とともに官幣大社の筆頭とされ[1]、1883年(明治16年)には勅祭社に定められた。
1910年(明治43年)、旧制第三高等学校(京都大学の前身の1つ)の学生が、慶應義塾ラグビー部からラグビーの手ほどきを受け、糺の森馬場で練習が行われていた[19][20]。日本で2番目となるラグビーチーム「第三高等学校嶽水会蹴球部」が創部され、後に京都大学ラグビー部となる。1969年(昭和44年)にそれを記念する石碑「第一蹴の地」が京都大学ラグビー部OBによって雑太社(さわたしゃ)に建てられた[19][21]。この石碑は「関西ラグビー発祥の地」であることも意味している[21]。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により拝殿、楼門両脇の塀が倒壊する被害を受ける[22]。
1937年(昭和12年)5月、本殿遷座。勅使が参向する[23]。
1945年(昭和20年)、時局に応じて大東亜戦争完遂祈願祭を挙行し祭祀料を下賜される[24]。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
平安時代中期以降、21年毎に神体を除く全ての建物を新しくする式年遷宮を行っていたが、本殿2棟が国宝、社殿53棟が重要文化財に指定されているため、現在は一部を修復するのみである[1]。
境内
- 東本殿(国宝)
- 西本殿(国宝)
- 叉蔵(重要文化財)
- 祝詞舎(重要文化財)
- 幣殿(重要文化財) - 拝殿でもある。
- 東廊(重要文化財)
- 西廊(重要文化財)
- 東御料屋(重要文化財)
- 西御料屋(重要文化財)
- 東楽屋(重要文化財)
- 西楽屋(重要文化財)
- 廻廊(重要文化財)
- 四脚中門(重要文化財)
- 葵生殿(預り屋、重要文化財) - 結婚式場。
- 西唐門(重要文化財)
- 大炊所(重要文化財)
- 鴨の氷室
- 井戸屋形(重要文化財)
- 御手洗池
- 橋殿(重要文化財)
- 細殿(重要文化財)
- 祈祷所(鴨社禮殿)
- 直会殿
- 舞殿(重要文化財)
- 神服殿(重要文化財)
- 供御所(重要文化財)
- 参集殿
- 廻廊(重要文化財)
- 楼門(重要文化財)
- 社務所
- 鴨神社資料館秀穂舎 - 神社に関する資料を展示[25]。
- 神宮寺跡
- 糺の森 - 広さ12万4,000平方メートルで原野の姿をとどめる森[25]。樹齢450年の御神木が立っていたが、2026年(令和8年)6月に根元から倒れてしまったため、御神木のあった場所を「御神木跡」として保存する[26]。
- 馬場
- 境内。舞殿(右)、神服殿(左)
- 糺(ただす)の森
- 御手洗社
摂末社
摂社




末社
- 印璽社(重要文化財) - 祭神:霊璽。
- 言社(ことしゃ) - 本殿前にある七つの社の総称。大国主命の七つの別名ごとの社で17世紀に造営されたもの。十二支の守り神とされる[28]。
- 一言社本殿 (重要文化財) - 祭神:大国魂神。
- 一言社本殿 (重要文化財) - 祭神:顕国魂神。
- 二言社本殿 (重要文化財) - 祭神:大物主神。
- 二言社本殿 (重要文化財) - 祭神:大国主神。
- 三言社本殿 (重要文化財) - 祭神:志固男神。
- 三言社本殿 (重要文化財) - 祭神:大己貴神。
- 三言社本殿 (重要文化財) - 祭神:八千矛神。
- 井上社(御手洗社) - 祭神:瀬織津姫命。井戸の上に建つ。前にある御手洗池は「斎王代御禊の儀」が行われる場所で、池から湧きあがる水泡の姿を団子にかたどったものが「みたらし団子」の発祥とされる[29]。
- 相生社 - 祭神:神皇産霊神。2本の木が途中から1本に繋がった「連理の賢木」と呼ばれる神木がある。縁結びの神として有名[30]。
- 愛宕社・稲荷社 - 愛宕社祭神:火産霊神、稲荷社祭神:宇迦之御霊神。
- 祓社 - 祭神:賀茂建角身命、玉依媛命、祓戸神。
- 印納社 - 祭神:印璽大神、倉稲魂神。
- 雑太(さわた)社 - 祭神:神魂命。
- 二十二所社 - 祭神:鴨氏二十二譜始祖神。
- 河崎(こうさき)社 - 祭神:大伊乃伎命、神魂命、賀茂建角身命、玉依彦命、大屋奈世命、馬伎命。
- 賀茂斎院歴代斎王神霊社 - 祭神:歴代斎王神霊。
- 天神宮社 - 祭神:天照大御神、菅原道真。
- 西本殿(国宝)
- 舞殿
- 橋殿
- 細殿
- 供御所
- 神服殿
- 末社一言社(左は透塀)
- 末社三言社
- 摂社三井神社棟門
主な祭事・行事
文化財
社殿のうち2棟が国宝、31棟が国の重要文化財に指定され、17棟が重要文化財の附(つけたり)指定となっている[31][32]。
国宝
重要文化財
- 賀茂御祖神社 31棟(建造物)
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(指定年月日)
- 1901年(明治34年)8月2日 - 東本殿、西本殿など23棟(西唐門の附の左右透塀含む)が古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法下の「重要文化財」に相当)に指定。
- 1903年(明治36年)4月15日 - 神服殿、供御所、大炊所の3棟が特別保護建造物に指定。
- 1953年(昭和28年)3月31日 - 東本殿、西本殿が文化財保護法に基づき国宝に指定。
- 1967年(昭和42年)6月15日 - 叉蔵、摂社出雲井於神社本殿、摂社三井神社本殿(3棟)、同拝殿、同棟門、同東西廊下(2棟)の9棟を重要文化財に追加指定。このほか、大炊所の附の井戸屋形と、末社印社本殿以下の附指定物件はいずれもこの日付けで指定。[35]
国指定史跡
- 賀茂御祖神社境内[36]。
関連文化財
その他
境内のマンション建設

2015年(平成27年)3月に、世界遺産・糺の森に隣接する御蔭通の南側の世界遺産バッファゾーンで、当時の駐車場と研修道場の所在地にマンションの建設予定があることが報じられた。これは21年に1度の式年遷宮の費用捻出のため、業者に50年の期限付きで土地代として年間約8千万円の収入を見込んで貸出するものである[39][40]。
これには反論も噴出した。老朽化した研修道場と駐車場の跡地であり、伐採する樹木の本数も少ないこと、新たに建物の周囲に糺の森に植わっている樹木と同種の樹木を植樹すること、建物の高さを抑え落ち着いた和風の外観とすること、糺の森の中の小川をイメージしたせせらぎを参道の脇に作ることなどで京都市の同意もとりつけた。その上で、2017年(平成29年)に予定通りマンションは建設された。また、このマンションに入居する際は「糺の森保存会」もしくは「下鴨神社崇敬会」のいずれかに終身会員として加入することが条件となっている。
一部の政党や市民団体が現在でも「世界遺産に違法にマンションを建設した」とか「糺の森を破壊した」と事実と異なる主張をして建設を認めた現市政を批判している。しかしながら、前述の通り世界遺産エリアではなく世界遺産バッファゾーンであり、世界遺産バッファゾーンに建設されるべき建物としての条件を備えており、森を伐採してマンションを建設したわけではなく、駐車場と研修道場だった場所の転用であった。
舞台となった作品
前後の札所
所在地
- 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
