並河易家
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並河氏は丹波国亀岡の国人。並河城[4]主と云う。元は内藤五郎兵衛忠行の家臣[5]。
天正3年(1575年)6月16日付並河因幡守、同兵庫介宛の織田信長朱印状写[6][3]によると、「丹波守護代・内藤忠俊(内藤如安)と、宇津城主・宇津頼重は、元亀4年(1573年)の京都騒動の際、15代将軍・足利義昭方に付き[7]、信長に対して逆らい出頭もしないので、誅罰を加える為、明智光秀を遣わした。協力すれば、本領安堵する。もし、内藤・宇津側に付く者があれば、同じく成敗せよ、信長に忠節を尽くすように」という内容で、川勝氏・小畠氏と同じく[8]、並河氏も、この頃より、信長の丹波侵攻へ協力し、光秀に丹波衆の一人として従うようになった。同年12月2日、光秀が、百姓宛てに、一年季売買の田畠・賭け事の銭・未納年貢を破棄する徳政令を発布した際、永代売買地・質物を徳政から除き、年寄層を保護した[9]。同月27日、曽祢六郎左衛門宛の書状で、これを伝達した「掃部助某」は、易家であろうか。
天正4年(1576年)1月15日[10]、丹波の赤井直正の計略で波多野秀治が反乱したため、光秀は大敗し坂本を目指して退却した。この時、易家は、松田太郎左衛門・開田太郎八・荻野左兵衛・波々伯部五郎三郎と共に案内者を勤める[11]。光秀は並河一族の案内で辛うじて丹波を脱出できた。天正5年(1577年)、亀山城主・内藤備前守定政が卒去。光秀・長岡忠興(細川忠興)が、同年10月16日から三日三晩亀山城を攻めて降参させ、内藤の家人は光秀の旗下に属した。この時、易家も随ったという[12]。ただし、亀山城についてはこの年の1月には既に城の一部である惣堀を光秀が丹波の国人たちに命じて掘らせており、それ以前に既に光秀の支配下にあったとする見解もある[13]。同月、波々伯部権頭が篠山城に楯籠った時には、易家は、長岡藤孝(細川幽斎)に、「福知・綾部・久下・長沢・太田等の諸城を押え、割城にして攻められよ」と、進言した[12]。
天正7年(1579年)6月1日[10]、光秀が、波多野秀治を神尾山城で、和議と偽り捕らえた時、易家は同席して波多野秀尚を捕らえた[11]。同年9月、信長の命で、光秀・藤孝父子が、丹後国田辺城の一色義道を囲み攻めた時、易家は、明智秀満の隊1500に属す。同月5日に義道が戦死、子の五郎義俊(一色義定)が弓木城に籠ると、それを囲んだ将の中に名が見える[12]。
山崎の戦いでは明智軍右翼先陣として子・八助と共に出陣した。山ノ手で、堀久太郎(堀秀政)、浅野弾正(浅野長政)父子等と激戦となり、妻木忠左衛門(妻木広忠)、波々伯部権頭、酒井孫左衛門、同與大夫等と共に、敵を追散した。500余人討取、300余人討死したという[14]。其の後、討死にしたとも、生き延びて、秀吉より大坂で扶助を受け、摂津国で病死した[15]、ともされている。戦後、茶会に名を連ねた明智掃部という人物とは同一人物であるという説がある。