中井町
神奈川県足柄上郡の町
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中井町(なかいまち)は、神奈川県の南西部に位置し、足柄上郡に属する町。
| なかいまち 中井町 | |||||
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厳島湿生公園 | |||||
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| 国 |
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| 地方 | 関東地方 | ||||
| 都道府県 | 神奈川県 | ||||
| 郡 | 足柄上郡 | ||||
| 市町村コード | 14361-8 | ||||
| 法人番号 | 4000020143618 | ||||
| 面積 |
19.99km2 | ||||
| 総人口 |
8,578人 [編集] (推計人口、2026年8月1日) | ||||
| 人口密度 | 429人/km2 | ||||
| 隣接自治体 | 平塚市、小田原市、秦野市、中郡二宮町、足柄上郡大井町 | ||||
| 町の木 | キキョウ | ||||
| 町の花 | キンモクセイ | ||||
| 町の鳥 | シラサギ | ||||
| 中井町役場 | |||||
| 町長 | 戸村裕司 | ||||
| 所在地 |
〒259-0197 | ||||
| 外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
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| ウィキプロジェクト | |||||
土地利用は、山林が約34パーセント、農地が約24パーセントを占める[2]。東名高速道路の秦野中井IC付近には製造業や流通業の事業所が集積している[2]。
地理
歴史
古代
少なくとも、縄文時代から人が活動していたといわれている。田中・一本松付近・境・井ノ口・松本の各台地には縄文土器の破片が散布している。松本の台地から殆ど完全に近い縄文土器の壺が発見されている[3]。
縄文期以降の人の活動の痕跡として、雑色横穴群や比奈窪横穴群、宮向横穴墓(※関東大震災と宅地開発で失われた)などの遺跡がある。雑色横穴群は8世紀中頃から末期にかけて、比奈窪横穴群は7世紀から8世紀にかけて、宮向横穴墓は7世紀前半に造られたものであるといわれている[3]。
735年の「相模国封戸租公益帳」には、「余綾郡中村郷五十戸」という記録があり(一郷=五十戸)、田は167町と記録されていた(参考として、田の広さを例えるならば、1958年(昭和33年)当時の中井町の田の規模は91町8反90歩と記されている。相模国封戸租公益帳に記されている田の広さは、1958年(昭和33年)当時の田の広さよりも大きい[3])。このため「中村郷」は、現在の小田原市上曽我・曽我原を含んでいたと考えられる。簡潔にいうと、現在の中村地区のルーツである中村郷は、少なくとも奈良時代には存在し、余綾郡に属していたといえる[3]。
中世〜近世
平安時代末期には、相模国の西側を治めた武士団である中村氏が、中村郷を荘園として支配していた。中村氏は桓武平氏の流れを汲んだ坂東平氏であり、源頼朝の挙兵にも参加した。
室町時代の僧道興による歌紀行『廻国雑記』に「蓑笠の社として社頭ましましける しばらく法施し侍りて 天の下 守らんための 誓とや ここにき宿る 蓑笠の社」という和歌が残っており、この和歌は蓑笠神社境内の根府川石に刻んで現存している。少なくともこの時代には蓑笠神社が存在したと考えられ、井ノ口の集落の存在を示唆する古い歴史書である。
戦国期には、鴨沢要害が築城され、大森氏に仕えた武和泉守や、北条早雲が戦を繰り広げてたとされる。
江戸時代には、比奈窪、松本、雑色、鴨沢、古怒田、半分形、田中、遠藤、藤沢、境別所の各村には、小田原宿の助郷をした記録が残っている。江戸時代末期には、小田原藩領が10ヶ村(うち2か村は旗本領との相給)、旗本領は8ヶ村(うち2ヶ村は小田原藩領との相給)となっていた。
中井の16の村は、丘陵地のため畑が多かった。境別所や岩倉では漆を年貢として納め、農閑期は薪を国府津に売り出して民衆は生計を立てていたという。庚申講や地神講、念仏講を結成した記録が残っている。講によって息抜きをしたり、富士講や大山信仰や観音信仰で巡礼し、通行手形を取得し他国を観察していたと考えられる。[3]
近代
- 1873年(明治6年):寺院過去帳によると、現在の中井町に相当する地域で苗字がはっきりし始める。
- 1884年(明治17年):全国的な農村困窮により、神奈川県西部を中心に「一色騒動(露木事件)」→真土事件 が起こる。井ノ口、境からも1名ずつ、大磯を襲撃した者がおり、姓名、年齢が公表されている。[県史通史編]
- 1897年~1906年(明治30年代):中井の地において、乳牛の導入、落花生栽培、みかん栽培が導入される。乳牛飼養は、五分一の古西良、宮上の岩本又治郎、宮向の植木源六が先駆者とされている。みかん栽培は中村の相原恵佐が手がけた。これらの事業は失敗したとされるが、全国的にもかなり早期の取り組みだったようだ。
- 大正期:農家の地主と小作人化が進む。豪農を中心に農産物の販売に力を入れるようになる。
- 1919年(大正8年):中村川流域の水田耕地整理が完了。二毛作が可能になる。おそらく現在の大町耕地(※役場南側の水田地帯)ではないか。
- 1923年(大正12年):関東大震災が起こる。震生湖が誕生する。
- 中井地区では、全村で死者24名、重傷者21名。建物被害は、全潰家屋163戸、半潰家屋325戸、倉庫や物置数知れず。全戸843戸の内、全半潰488戸と、58%分に相当する大被害。震災直後は507世帯がバラック居住を余儀なくされた。
- 中井地区では、旧中村小学校と、比奈窪大町から旭橋間の道路、境別所の畑から山林にかけて亀裂が入った。中村小学校の校舎は新校舎が全壊、旧校舎も七分方潰れたという。各地区で地割れや土砂崩壊が多数。
- 1928年(昭和3年) 12月:中井自動車株式会社が比奈窪〜二宮のバス路線を運行開始する。中村地区を通る町内初のバス路線である。
- 1929年(昭和4年):秦野自動車株式会社が秦野〜二宮間のバス路線を運行開始する。井ノ口にもバス路線が通る。
- 昭和初期:昭和恐慌。全国的な流れと同様に、中井でも天候不順により凶作に見回われる。
(→農山漁村経済更生運動)
戦後~現代
- 1946年〜1950年(昭和21年〜25年):農地改革。
- 1964年(昭和39年):現在の「中谷産業」が工場を設置する。中井町に大工場が立地し始める。[4]
- 1977年(昭和47年):日立電子エンジニアリング が工場を設置する。
- 1981年(昭和56年):東名高速道路の秦野中井インターチェンジが開通。
- 1989年(平成元年):神奈川県道71号秦野二宮線の新バイパスが全通。南北の行き来が円滑・高速化される。
- 1989年(平成元年):テルモが事業所を設置する。
人口
| 中井町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 中井町の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 中井町
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
中井町(に相当する地域)の人口の推移
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| 総務省統計局 国勢調査より | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
行政
産業
総世帯数約3,000のうち、6分の1にあたる約500世帯が農家であり、また120世帯余が林業に携わっている。近年では東名高速道路のインターチェンジ付近に工業団地を造成したことにより、就業人口にも変化がみられる。
農林業
農畜産業
- 中井町の町域面積のうち約4分の1が農地であり、世帯数の16%、人口の23%ほどが農家であるが、その数は年々減少している。
- 2000年(平成12年)の耕地面積は513haで、そのうち作付延べ面積は430ha(耕地利用率83.8%)である。内訳は以下のとおり。
- 田 - 34ha(水稲23ha・陸稲1haなど)
- 畑 - 479ha
- 普通畑 - 319ha(らっかせい33ha・とうもろこし31ha・だいこん25ha・甘藷22haなど)
- 樹園地 - 160ha(みかん87ha・くり20ha・うめ11haなど)
- 酪農農家は30戸あり、乳牛800頭余が飼育されている。生乳の出荷額は5億5千万円で、全体の4割以上を占める。
林業
工業
- 2000年の工業事業所数は97で、製造品出荷額は約842億円である。
商業
- 卸・小売・飲食店数は134で、卸・小売を合わせた年間販売額は約210億円である。
地域
健康と福祉
- 2000年の老齢人口比は14.3%である。これは全国平均よりも低く、県内平均とほぼ同じ数値であったが、2014年には28.4%まで上昇し、全国平均の25.2%、県内平均の22.5%を大きく上回り、高齢化の進展が著しい。
- 2024年には、中井町の総人口は8933人となっており、65歳以上の人口は、3302人となっている。65歳以上の割合は、約36.9%(年齢不詳を除く) となっている[5]。
教育
- 中井町立中村小学校
- 中井町立井ノ口小学校
- 中井町立中井中学校
施設
公民館
- 井ノ口公民館[6]
コミュニティ
公園




