1945年4月、カロー兵站病院で治療を受けていた相沢隆和によると、光機関の丸山隆道中尉が同室で入院し、見舞いのため滝村、稲永二曹長ら複数光機関員が現れたという。この時、滝村は曹長に昇進しており、過去にバンコクの日本大使館に勤務した話をしたという。相沢は、滝村が稲永、丸山、ビルマ人兵士三人を連れトングーに出発するのを知ると同行を希望し、無理して退院した。 4月23、24日頃、シッタン河東岸に反乱ビルマ兵が出没するようになり、集落ではビルマ人女性に睨まれたりと不穏な状況となった。安全と思われる山沿いを夜通しで歩き、翌朝無人の村落で休止すると、三人のビルマ人兵士らが朝食の準備と称して姿を消し、突然相沢が銃撃される事態となった。 一行は幅20メートルの川へ飛び込み、対岸の藪へ避難して相沢を手当てした。相沢は左胸と腕の付け根の中間を被弾していたため傷口にキニーネの錠剤を詰め込んだ。この時、滝村含め光機関員らは非武装であり、相沢だけが拳銃を所持していた。時間が経つと相沢の傷口に蛆がわいてきた。
翌日、次の村落で現地人から食料を貰うが、不自然な会話をしているのを見て速やかにその場を去った。相沢は昨日の襲撃は三人のビルマ人による裏切りだと主張したのに対し、光機関員らは「違う」と反論し、「現地人と同じ釜の飯を食べ生死を共にするのだ」と擁護した。その夜の道中、銃を持ったビルマ兵二人に声をかけると、山の中へと逃げ去っていった。 翌朝、新しい家が立ち並ぶ一角へ出ると、一行に気付いた数十人のビルマ人が突然大声をあげ、村の中を逃げ回った。その中に昨晩会った銃を所持したビルマ人兵士二人の姿もあったため、危険を感じ、一行は山中に逃げ込んだ。 ここで相沢は滝村、稲永を見失った。数日後には丸山も奇声と共に失踪した。相沢は逃避行の末、靴が破けた状態で村へ転がり込み、住民に助けられた後、英軍の医療施設へ運ばれた[15]。
滝村の最期については諸説ある。中野校友会が出版した『陸軍中野学校』には「ビルマ・シャン高原にて戦死」、『高山市史 第3巻』では「ビルマ兵站病院にて病死」とある。いずれも4月11日が命日扱いとされた。死後、階級は准尉。 石川は滝村の死を悼み、以下の証言を残した[16]。
「F機関で最初から何でもやらされたが確実に実行し、尊敬に値する下士官。生きて草するのに必要な人だった」
享年29。