中山氏
From Wikipedia, the free encyclopedia
概要
高麗五郎経家が武蔵国高麗郡加治郷に定着したことから当初は加治氏を名乗った。その13代目の家勝が同郷の中山村に移住したため以後は中山氏を称した。中山家勝は武蔵七党丹党の一族(加治氏)として武蔵を基盤に活動し、山内上杉氏に仕えた。ついで後北条氏の北条氏康に仕えた。家勝の子中山家範(勝範)は北条氏照に仕え、1580年(天正8年)に豊臣秀吉の北条攻めを受け、八王子城を守って討ち死にした。[1]
幕府旗本の中山氏
家範の嫡男である中山照守(家守)は、北条家滅亡後に新たに関東の支配者となった徳川氏に仕えた。照守は上田合戦で上田七本槍に数えられる奮戦をし(ただし、軍律違反で謹慎処分を受けている)、また高麗八条流馬術を将軍徳川秀忠・徳川家光に伝授して、最終的に3500石の大身旗本となった。子孫も旗本として存続した。旗本中山家からは、それぞれ盗賊改・火付改に任じられて「鬼勘解由」とあだ名された中山直守・中山直房親子などが出ている。
水戸藩附家老→華族男爵家の中山氏
また照守の弟の中山信吉(後の中山備前守家)も徳川家康に近習として仕え、慶長12年に常陸水戸藩主徳川頼房に附属されて常陸国真壁郡内に6500石を領した。さらに慶長14年に1万5000石、元和7年に2万石、宝永5年に2万5000石に加増された[2][3]。水戸藩の付家老家だった。
明治元年(1868年)1月24日に水戸藩から独立した藩屏と認められ、常陸松岡藩となった。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で松岡藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで同藩知事を務めた[4]。
版籍奉還の際に定められた家禄は現米で405石[5][注釈 1]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は、1万4185円12銭5厘(華族受給者中290位)[7]。
明治前期に当時の当主信実の住居は東京府牛込区東五軒町にあった。当時の家扶は、高階知訓、大森勉[8]。
明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に「一新後に華族に列せられたる者」として信実が男爵に列せられた[9][10]。
昭和9年に信実が死去すると信常が爵位と相続[3]。彼の代の昭和前期に中山男爵家の住居は茨城県多賀郡松岡村にあった[11]。