常陸松岡藩
江戸時代に常陸国を拠点に所領をもち、明治初期に認定された藩
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常陸松岡藩(ひたちまつおかはん)[注釈 1]は、常陸国多賀郡下手綱[1](現在の茨城県高萩市下手綱)の松岡城を居城とした藩。手綱藩(てづなはん)とも称される[2]。江戸時代初期に戸沢政盛が4万石で入り、約20年間存続した。その後、松岡には水戸藩附家老中山家が居館を置いた。中山家は明治維新期に独立した藩として認められて松岡藩(まつおかはん)と公称し、廃藩置県まで続いた。
幕藩体制下において中山家は1万石以上の知行地を有するとはいえ、水戸藩の附家老であって大名ではない。事典類によっては維新立藩からさかのぼって「松岡藩」として扱うことがあり[3]、さらには久慈郡太田郷(常陸太田市)周辺に知行地を移されていた時期について「太田藩」との呼称を用いることもあるが[注釈 2]、一般的な認識とは言えない[注釈 3]。
本記事では、水戸藩附家老としての中山家とその知行地、および廃藩後に置かれた松岡県(まつおかけん)についても言及する。
歴史
戸沢家の藩
慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いで常陸を支配していた佐竹義宣は、徳川家康に積極的に協力しなかったとして出羽久保田藩に移封された[6]。
慶長7年(1602年)9月、戸沢政盛(当時は安盛[注釈 5])が4万石で松岡に入り、常陸松岡藩を立藩したが、石高の上ではむしろ5000石の減封であった[6]。入部当初、政盛は居城を茨城郡の小川城(茨城県小美玉市)としていたが、慶長11年(1606年)に多賀郡下手綱の竜子山城に移し、ここを改修して松岡城と改めて移った[6]。戸沢家は従来の角館から常陸に移ったため、藩政の中枢である家老や年寄は従来の老臣が占めたが、直接民政に当たる地方の役職には常陸で新たに召し抱えた家臣を採用して、石高制への転換を図った[8]。これら常陸で登用した新規家臣は後に戸沢家が新庄に移った際に譜代の臣として藩政の要職に就いている[9]。また政盛は徳川家譜代の重臣鳥居忠政から妹を正室に迎え[9]、継嗣にも忠政の次男戸沢定盛を迎えるなどして御家の安泰を図っている[10]。
政盛は元和8年(1622年)9月に出羽国新庄へ移された[11](当初は真室城に入城[7])。旧松岡藩領4万石のうち、3万石と松岡城は水戸藩へ、1万石は棚倉藩へそれぞれ編入された。
戸沢家は出羽新庄で11代続いて明治維新を迎える。『新庄市史』は、戸沢家は松岡藩時代の20年に近世大名へと成長し、「新庄藩政にとっては大きな意義」があったと評価している[7]。
水戸藩附家老・中山家の時代
中山家と松岡
水戸藩附家老中山家の初代・中山信吉(小田原北条家家臣・中山家範の二男)は、天正18年(1590年)に兄の中山照守とともに徳川家康に召し出された[12]。慶長12年(1607年)に徳川頼房(5歳、当時は常陸下妻藩主)の附家老とされ、真壁郡内で知行地を加えられた[12]。慶長14年(1609年)に頼房は水戸藩に移された。元和2年(1616年)には頼房から5000石を加増され、合計2万石を領した[12](『角川日本地名大辞典』は1万5000石とする[13])。
2代・中山信政(信正)は旗本として幕府に仕えていたが、寛永5年(1628年)に頼房に附属され、老齢の父・信吉に代わって政務をつかさどった[12]。寛永19年(1642年)に信吉が死去し[12]、信政が家督を継いだ[14]。『寛政重修諸家譜』によれば、信政は家督継承後に領地を多賀郡に移され、松岡に居所を営んだ[14]。『角川日本地名大辞典』によれば、信政が松岡城の城主となったのは正保3年(1646年)である[15]。ただし、信政は松岡城に在城したわけではない[15]。
太田への移転
宝永4年(1707年)、第6代中山信敏のとき、久慈郡太田周辺に知行地を移され[5](ただし松岡城の敷地と下手綱村は所領として残された[13])、太田に居館を移すこととなった[13]。松岡城の建物などは太田城(太田御殿[16])に移築され、事実上の廃城となったとされる[15]。
宝永6年(1709年)、中山氏が自己の裁量で知行地から年貢を徴収することが認められた[5]。水戸藩において「別高」と呼ばれる制度で[5][17]、中山氏に一定の自治的な行政権を認めるものである[5]。『高萩市史』は「水戸藩内において一つの新規の小藩的な性格のものが成立した」と記す[5]。
松岡への復帰
第10代中山信敬は第6代水戸藩主徳川治保の弟であった。信敬は養子として中山家を継嗣し、同氏の地位向上に力を尽くした。享和3年(1803年)、知行地をすべて多賀郡に移され、松岡城跡に館を構えた[15][13]。同時に新田高を加えて知行は2万5000石となった[13]。城下町の整備なども行なわれたため財政難となり、家臣の俸禄借り上げなどが行なわれた。
維新立藩から廃藩まで
第14代中山信徴の時代である明治元年(1868年)1月、新政府の特旨により松岡藩は正式に水戸藩から独立した。明治2年(1869年)の版籍奉還で信徴は松岡藩知事となった。
松岡県
明治4年(1871年)の廃藩置県で松岡藩は廃されて松岡県となった。同年11月、松岡県は茨城県に編入された。明治17年(1884年)の華族令発布により、信徴の長男中山信実は男爵を授けられた。
歴代藩主
領地
松岡(手綱)

明治初年の松岡藩成立後は政治・経済の中心地となったが、のちに郡役所が松原町(現在の高萩市中心部)に置かれたためにその中心地としての地位を失った[1]。
小川
戸沢政盛は当初、茨城郡の小川城(「小川」は「小河」とも記される[19])に入り[20][7]、慶長10年(1605年)に松岡に移るまでの4年間本拠とした[20]。本拠を松岡に移したのち、代官として小山壱岐と片岡杢之助を駐在して小川領の統治にあたらせた[20]。慶長17年(1612年)には下馬場の鹿嶋神社を再建している[20]。
小川領7000石は水戸藩領に組み込まれた[20]。園部川に河岸が設けられ、小川の町は霞ヶ浦を通じた河川舟運の要地として栄えた[19]。小川城跡には水戸藩の運漕方役所や医学修練所である「小川稽医館」が設けられた[19][20]。
太田
太田城は中世以来の佐竹氏の城であり、佐竹義宣が水戸城を築いて移るまでその本拠地であった。江戸時代には「太田御殿」が置かれ、中山家が管理した。