中島錫胤
日本の裁判官、政治家 (1830-1905)
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経歴
徳島藩士・三木章助の長男として[2]、徳島城下の佐古町楠小路(現在の徳島県徳島市佐古地区)で生まれる[3]。はじめ漢学を楠本鼇山・岩本贅庵に学ぶ。少壮の頃、篠崎小竹・古賀謹堂(古賀謹一郎)の門、及び昌平黌に学ぶ。京都の儒者・中島棕隠の門下となり[3]、のち老齢の棕隠の養子となり[2]、中島永吉と称した。
幕末期には新居水竹らと交わり、尊王攘夷派として国事に奔走[3]。桜田門外の変を引き起こした水戸藩士の金子孫二郎、高橋多一郎らと関わったことから、万延元年(1860年)には事件関係者として捕えられ、伏見で投獄された(のち赦免)[4]。
また、文久3年(1863年)には足利三代木像梟首事件に関係したとして、小室信夫とともに幕吏に追われる[3]。徳島に逃れ、豪商志摩利右衛門[5] の徳島佐古大安寺近くの別邸に匿われる[5]が捕えられ、慶応4年(1868年)2月まで徳島塀裏の獄中にあった[3][6]。
明治元年(1868年)、徳島藩の徴士として明治新政府に出仕し[2]、刑法事務局権判事、刑法官判事として出仕[2]。明治2年5月(1869年)に兵庫県知事に任命された(任期はごく短期間で未赴任[4])ほか、明治3–4年には岩鼻県知事、七尾県権令、飾磨県権令に各々短期間ながら任じられた[2]。新暦1873年(明治6年)以後は司法省に転じ、長崎裁判所長、静岡裁判所長、長崎・宮城・名古屋の各控訴裁判所長などを歴任[2]。1884年(明治17年)に元老院議官となる[2]。1889年(明治22年)2月の大日本帝国憲法発布直後、山梨県知事に任命され[2]、4年間の在任後、1893年(明治26年)3月に非職を命じられ、翌月に依願退職した。
1894年(明治27年)5月、錦鶏間祗候に任じられる。1896年(明治29年)6月、華族(男爵)列せられ[2]、翌年貴族院議員に当選した。
1905年(明治38年)10月5日死去、享年77[1]。雑司ヶ谷霊園1-4- A-2-1に墓碑が所在。
錫胤は華族一代論を主張していたため、死後襲爵の手続きがなされなかった[2]。娘はジャーナリストの大野若三郎(雑誌『同人』主宰)に嫁ぐ[7]。 嫡孫・鶴子は白井喬二(時代小説作家)に嫁ぐ[8]。
官歴
- 明治元年(1868年)
- 明治2年(1869年)
- 明治3年(1870年)
- 正月8-10日(2月8-10日) - 謹慎
- 8月 - 殉国之士取調掛に
- 9月2日(9月26日) - 任岩鼻県知事
- 明治4年(1871年)
- 明治5年8月27日(1872年9月29日) - 免本官
- 1873年(明治6年)新暦
- 6月4日 - 司法省五等出仕に
- 12月28日 - 任権中判事
- 1874年(明治7年)
- 1月 - 長崎裁判所在勤に
- 2月18日 - 叙正六位
- 1875年(明治8年)5月4日 - 任五等判事
- 1876年(明治9年)9月27日 - 静岡裁判所長に
- 1877年(明治10年)6月28日 - 任判事、静岡裁判所長を重任
- 1880年(明治13年)1月15日 - 叙従五位
- 1881年(明治14年)
- 1882年(明治15年)
- 1883年(明治16年)
- 1884年(明治17年)
- 7月4日 - 名古屋控訴裁判管内巡視長に
- 12月4日 - 任元老院議官
- 1885年(明治18年)2月6日 - 叙従四位
- 1886年(明治19年)
- 1月15日 - 高等法院予備裁判官に
- 3月30日 - 叙勅任官一等(元老院義官官等)
- 7月29日 - 東京府へ転籍
- 10月20日 - 叙従三位
- 1887年(明治20年)11月25日 - 叙勲二等旭日重光章
- 1889年(明治22年)2月27日 - 任山梨県知事
- 1893年(明治26年)
- 3月21日 - 非職を被命
- 4月4日 - 依願免本官
- 1894年(明治27年)5月14日 - 錦鶏間祗候に任じられる
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)7月10日 - 貴族院男爵議員[10]
