中村一雄
日本の騎手 (1900-1990)
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経歴
1923年に美馬勝一の下へ入門し、1924年に初騎乗とされる[1]。騎手兼調教師として、1934年春の帝室御賞典(東京)に優勝したミラクルユートピアを手掛けたほか、ハクリュウやファインモアといった騎乗馬で後の重賞を制覇。管理馬オーミヤチダケとダイヱレクには実弟の中村広を乗せ、前者は福島の帝室御賞典、後者は横浜農林省賞典四歳呼馬を制している。形式的には弟弟子の広を事実上は一雄が師匠として騎乗を仕込み[2]、その指導は非常に厳しいものであったが[2]、後に広は日本競馬史上初の500勝を達成するなど名騎手として知られた。
一雄自身は当時の日本では珍しい鐙の短いモンキー乗りで騎乗していた騎手の一人であり、師匠の美馬も同様であったが、より先進的にアレンジしたものであったとされる[3]。日刊スポーツ初期の記者である大島輝久が、先輩記者に往年の名騎手は誰かと尋ねると、口を揃えて一雄の名を挙げたという[3]。前半抑え、後半で追い込みをかける戦法が多かった当時にあって、一雄は先行してレースを進めることが多く[4]、「ハナ切りの名人[2]」「逃げの中村一雄」とも称された[3]。先行策が多く見られるようになるのはずっと時代が下ってからのことであり、弟子の渡辺正人は「わが流儀は三十年の昔から大方が今目覚めて採用せざるを得ない方法を既にマスターしていたのだから、ちょっと違う」と述べている[4]。
東京優駿には4度騎乗し、1939年のゴールデンモアの3着が最高成績であった。管理馬としては1933年にメリーユートピアが2着しているが、この時に一雄は別馬の調教中に右足を骨折して騎乗できず、紆余曲折を経て徳田伊三郎が代わりに騎乗していた[5]。その弟であるミラクルユートピアは1934年の東京優駿で不動の本命馬と目されていたが、当日朝の調教で左前脚の繋骨にひびが入り、出走することが出来なかった。前日晩の就寝中に中村はひどくうなされており、一緒に寝ていた武田文吾が訝しんで揺り起こすと、中村は「スタートで両側から挟まれて、どうしても出られない夢を見た」と語ったという逸話がある[5]。
太平洋戦争中に廃業し、実業家に転身後は北海道の明和牧場に場長として迎えられた[6]。同場は当時80頭の繁殖牝馬を抱える大規模牧場であったが、不況による馬の生産過剰の影響を受け打撃を被っていた[6]。中村は1976年に繁殖牝馬の数を一気に半減させた上で育成部門に力を注ぎ始め、1977年からは預託育成も開始したことで牧場の成績は向上し、経営も安定していった[6]。在任中には「2億円は稼げる」と期待した[7] [8]生産馬ハワイアンイメージが皐月賞馬となり、その功績を称えて同場には胸像が建立された[6]。
弟・広とのコンビではベルエアは1982年の関屋記念と新潟記念で2着になり、ハワイアンイメージの妹カズエコーラス(1981年桜花賞8着)やベルベットムーン(1982年桜花賞5着)、バナレット(1987年皐月賞6着・東京優駿8着)らがクラシックに出走したが、兄弟で栄光を掴むことは出来なかった[9]。
1990年11月2日、長野県の自宅にて病気により82歳で死去[10]。
成績
関連項目
- 富田六郎 - 弟子。