中牟田家 (子爵家)
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封建時代
家伝によれば、摂関松殿基房の子権中納言藤原家房の2子家直と家重が京都を去って筑後国へ移住し、家直は西牟田村に住んで西牟田氏の祖となり、家重は中牟田村に住んで中牟田氏の始祖になったという[3]。
家重の曽孫家国の代に承久の乱があり、内裏の東門勤番に補せられて王事に尽くしたという。更にその孫永秀の代に元寇があり、弘安の役でモンゴル軍と戦い戦功があったという[3]。鎌倉時代末期、永秀の孫の永国が筑後を去って肥前国に移ったという[3][2]。
七郎兵衛の代の天正2年(1574年)に龍造寺隆信に仕え、天正12年(1584年)に島津氏との戦いで戦死した[3]。その子の三左兵衛は、鍋島直茂に従って朝鮮出兵や大坂の陣に出征し、肥前国三根郡下村下箱崎分のうち10石を受けたが、元和6年(1620年)に蔵米取に切り替えられる[4]。
三左兵衛の曽孫の貞房の婿養子武雅の子武傅は、中牟田家から分家して一家を起こし、20石の俸禄を与えられる。中牟田倉之助海軍中将の中牟田家はこの別家である[5]。武傅の甥で養子に入った武済は総計20石の加増を受けている[5]。
2代後の武辰(中牟田倉之助中将の外祖父)は、文政10年(1827年)に評定所において自殺したため、一時お家断絶にされたが、天保4年(1833年)に七郎兵衛の戦死が評価されて、武辰の子である倉之助武貞に家名再興が許された[6]。
倉之助武貞には子がなく、甥(武辰の娘と金丸孫七の間の子)にあたる倉之助武臣が養子として家督を継ぐ。この倉之助武臣こそ、後の中牟田倉之助海軍中将(明治に通称だった倉之助で戸籍登録したので諱の武臣は消滅)である。なお彼の実家である金丸家は、桓武平氏と伝わり、やはり佐賀藩士の家系で40石取りだった[7]。
明治以降

中牟田倉之助は海軍術を伝習し、戊辰戦争では軍艦を率いて奥羽・函館に転戦して戦功をあげ、1869年(明治2年)に函館鎮定の功により賞典禄150石を下賜された[2][8]。1870年(明治3年)に海軍中佐として海軍軍人となり、1878年(明治11年)に海軍中将に累進、ついで東海鎮守府司令長官、海軍大輔、海軍機関学校長などを歴任した[2]。1884年(明治17年)7月7日に戊辰戦争・西南戦争の功により子爵位を授けられた[9]。その後も横須賀・呉などの鎮守府司令長官を務め、海軍大学校校長・海軍軍令部長・枢密顧問官などを歴任している[2]。
中牟田倉之助は1916年(大正5年)3月30日に死去し、同年4月21日に息子の武正(1877年(明治10年)7月10日生、1918年(大正7年)2月1日没)が爵位を相続。武正は海軍中佐だった[10]。武正の死後の1918年(大正7年)2月28日に長男の武信(1914年(大正3年)8月28日生、1973年(昭和48年)4月19日没)が爵位を相続[10]。武信の代に中牟田子爵家の住居は神奈川県鎌倉町雪ノ下にあった[8]。
武信は男子がなく、長女雅子(1948年(昭和23年)5月24日生)と結婚した利平(1947年(昭和22年)1月9日生)が婿養子として相続。