久保木清
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広島商業高から慶應義塾大学に入学。1943年に行われた出陣学徒壮行早慶戦(いわゆる「最後の早慶戦」)では、故障していたエース・大島信雄に代わって先発投手として登板するが、早稲田打線に打ち崩されて敗れた。戦後に復学すると、1947年には主将を務め[1]、同年春期シーズンでは.375で首位打者となった[2]。
大学卒業後は、社会人野球の山崎産業を経て大昭和製紙でプレーしたのち、1950年シーズン途中に28歳で読売ジャイアンツへ入団[1]。
入団早々、6番・右翼手で先発出場するが結果を残せず、シーズンでは21試合の出場に留まり、打率.167に終わる。以降は出場機会に恵まれず、1953年はコーチ兼任となるが、同年末に退団した[1]。