久山義英 From Wikipedia, the free encyclopedia 久山 義英(くやま よしひで、生没年不明)は、幕末の武士(鳥取藩西館家臣[1])。明治・大正時代の鳥取県の資産家[2]、地主[3]。会見郡第六連合戸長[4]。別名(通称・俗称)省二、熊彦[1]。 鳥羽・伏見の戦いに参加した[1]。東山道先鋒軍に参加した[1]。下野戦争、上野戦争、奥州戦争に従軍した[1]。明治10年(1877年)西南戦争の際、陸軍省出仕、新撰旅団に属して戦地に赴いた[1]。帰郷後郡村吏員、実業に従事した[1]。 人物像 三新法改正後の連合戸長は「なるべくその町村に居住し、名望資産を有するもの」とされ県令が選んだ[5]。大港神社神官杉山雅宜の後任には元藩士の久山義英、吉岡照貞が任命派遣された[5]。 囲碁に嗜み手腕又郡の有数中に属す[2]。 史料 所得額三千円以上の人々 国税営業税納入者名と対照して検討すべき資料として『郡勢一斑』から見積り所得額(所得税から各税率によって換算した額)三千円以上の人々の名を掲げておく[6]。大正4年(1915年)である[6]。久山義英(七千三十二円、米子角盤町)の名がみえる。 三万四千五百五十九円・尾高町・坂口平兵衛 二万千九百二十八円・博労町・名島嘉吉郎 一万二千五百十四円・道笑町・三好栄次郎 一万二千三百五十三円・県村・高田繁太郎 一万二千二円・法勝寺町・野坂茂三郎 一万百十三円・道笑町・益尾吉太郎 九千九百十九円・大高村・船越弥一郎 八千九百三十九円・富益村・永見億次郎 八千百九十九円・内町・後藤快五郎 七千五百八十二円・春日村・田後与一郎 七千三十二円・角盤町・久山義英 六千九百十七円・福米村・本生芳三郎 五千九百八十四円・東倉吉町・木村吉兵衛 五千四百五十六円・道笑町・益尾徳次郎 五千二百三十八円・糀町・田村源太郎 五千六円・住吉村(旗ヶ崎)・油木茂三郎 四千九百十八円・糀町・近藤なお 四千八百四十一円・四日市町・田口庸三 四千八百十三円・彦名村・高場保蔵 四千六百八十六円・西倉吉町・赤沢康平[7] 四千三百二十六円・道笑町・三好常太郎 四千二百八十九円・西町・渡辺慶太郎 四千二百二十九円・紺屋町・船越作一郎 四千二百円・法勝寺町・高板秀治 三千六百十七円・日野町・杵村善市 三千五百十四円・道笑町・大谷房太郎 三千三百二十五円・糀町・小坂市太郎 三千三百二十五円・成実村・遠武勇蔵[8] 三千二百円・紺屋町・砂田竹太郎 三千百七十六円・内町・中村藤吉 三千七円・車尾村・高田浅蔵 大正5年(1916年)の地主層 当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった[9]。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである[3]。1000円~2000円の部に久山義英の名前がみえる。 1000円~2000円の部[3] 八幡貞蔵、森尾甚太郎、大塚誠太郎、三好豊吉、渡辺[10]幸四郎、隠岐村初太郎、野坂吉五郎、末好和三、小倉延衛、住田半三郎、今井兼文、富長為太、勝田伝六、久山義英、植田兼蔵 2000円~3000円の部[3] 神庭政七、亀尾定右衛門、亀尾伝三郎、藤谷喜三郎、天野芳太郎、井田虎次郎、有本松太郎、渡辺慶太郎、船越正蔵 3000円~4000円の部[3] 黒田繁夫、天満徳太郎、田中庄次郎、篠原義一、村上常三、長田吉太郎、小西芳太郎、中村藤吉、門脇孝一、津田宗一郎、広戸藤次郎 4000円~5000円の部[3] 砂田竹太郎、坂江まつの 5000円~7000円の部[3] 小坂市太郎、森久太郎、野波令蔵、松浦常太郎 7000円~10000円の部[3] 大谷房太郎、平野万寿子、石賀善五郎 10000円~15000円の部[3] 田村源太郎、近藤なお、益尾徳次郎、杵村喜市、船越作一郎、稲田秀太郎 15000円~20000円の部[3] 木村吉兵衛 20000円~25000円の部[3] 三好栄次郎、後藤快五郎 30000円~35000円の部[3] 野坂茂三郎 35000円~45000円の部[3] 益尾吉太郎 70000円~100000円の部[3] 名島嘉吉郎 100000円以上の部[3] 坂口平兵衛 脚注 1 2 3 4 5 6 7 とっとりデジタルコレクション--久山義英 1 2 﨏雨村編『陰陽八郡郡勢一斑』(大正6年)一四三頁 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 『米子商業史』166頁 ↑ 『境港市史 上巻』1986年(昭和61年) 495頁 1 2 『境港市史 上巻』(昭和61年) 494頁 1 2 『米子商業史』165頁 ↑ 元自治大臣赤沢正道の父。 ↑ 﨏雨村 編『陰陽八郡郡勢一斑』(大正6)四五頁では「遠武勇熊」である。 ↑ 『米子商業史』165頁 ↑ 綿辺か? Related Articles