東倉吉町
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歴史
かつて町の総間数は64間、加茂川右岸を占める柳町通34間、判屋小路20間が町の中程に通じたが、大正末期から町役場前の中央通りとして道路幅が大きく拡張されたため、その面影をみることができなくなった[2]。西倉吉町との境には外堀内の鉄砲五十人町に通ずる鉄砲小路、加茂川向かいの覚証院に通ずる覚証院小路があって、これは現存する[2]。
元禄8年(1695年)には家持38、借家48[2]。明治2年(1869年)の調べでは表竈45、裏竈57、人口359人であった[2]。
町禄は小間物、足袋[2]。履物がまず認められ、やがて太物呉服株が認められた[2]。他国商人の出入が多くなるにしたがって宿屋株も許可された[2]。
町名の由来
政治
産業
商家
呉服では桔梗屋、末吉屋、住田屋、播磨屋などがあり、幕末に宇尾屋は木綿直入方や判方を命ぜられた[2]。
木屋惣次郎は販売業のかたわら、三度飛脚宿も許可されている[2]。
宿屋は備前屋、吉田屋、越後屋、山城屋、松屋、隠岐屋があり、各地から行商やまた藩の在出役人の宿も引き受けた[2]。明治になって桜井、安島旅館も開業した[14]。
明治元年(1868年)秋の米子大入札講は官許の景気振興市であったが、当町を中心に展開され、入札会所には世良屋市右衛門(酒造業、町年寄)宅が当てられた[14]。
“世良屋世山氏”は米子を代表する酒造家で、幕末には鹿島家、大谷家などと共に町年寄を務めるほどの実力者であった[14]。そのほか、“末吉氏”、“仙田氏(仙台屋)”なども実力ある商人で、町の目代を務め、藩の資金調達にも度々応じた[14]。

(明治43年(1910年))
“桔梗屋木村氏”は近世中期から開業、製糸業も兼業していた[14]。次いで住田屋、播磨屋が開業し、いずれも呉服商として昭和に及んだ[14]。明治に入って“志保屋野坂氏”、大正に入って“徳田屋渡辺氏”の開業があった[14]。
“安島氏”は呉服行商もやったが、旅館が本業で後に錦公園前に別館も持った[14]。
“岡本氏”は江戸時代から古着類を扱ったが、後に呉服を扱うようになった[14]。
小間物、雑貨は住田分家の“中住田氏”“角住田氏”や“中田氏”が開業し、足袋製造では伊藤商店、八鹿商店があった[14]。伊藤商店は、地下足袋で名を売った[14]。
和裁紋縫の小田商店、田村耕雲堂、染物の島田商店、田村善市商店、洋服仕立ての宮倉猶之助商店も明治期の有名店であった[14]。
梶谷芳芬堂は、明治10年(1877年)の開業で、梅花油、香油「美人の母」、蝋燭、鬢付油、種油などの製造販売[14]。
市川商店は明治中期開業で薬種、絵具、染料を扱い、活版印刷も兼業していた[14]。
進藤山輪堂は染料、薬種、洋酒、医療器械、木下薬店も同じころの開業であるが、同店は後に西倉吉町に移った[14]。
- 明治期当町内でその他の営業者をみると、
- 鉄砲火薬店の土井商店[14]
- 木村玉文堂(書籍文具)[14]
- 大浜商店(学校用品、砥石、ランプ、眼鏡)[14]
- 寺崎米仙堂(米子饅頭その他、後に西倉吉町に移転)[15]
- 吉田静與堂(米城団子、白羊かん、町役場前)[15]
- 出石商店(金銀、宝石、鼈甲細工)[15]
- 広戸商店(雑穀商)[15]
- 梶野鉄工所(後に道笑町に移転)[15]
- 安田商店(機械製造販売など)
- 宝意商店(畳製造、各国煙草、宇治茶、茶器)[15]
- 松屋旅館[15]
- 大本商店(福米村大本酒造の販売所)[15]
- 山口商店(金物販売、鋸製造)[15]
- 白井白音堂(和洋菓子製造)[15]
- 新屋商店(鬢付油、蝋燭、鼈甲櫛笄など)[15]
- 食料品関係で吉川商店、斉藤商店の乾物、塩干物、中田商店(牛豚肉)、玉屋食料品店(酒類、缶詰、菓子、パン)[15]。
- 砂糖関係で持田商店、後藤屋松本商店、鮮魚大森商店(牛豚肉)、蒲鉾の出田商店が開業した[15]。
金融機関
- 明治、大正時代金融機関が相次いで開業した[15]。
出身人物・ゆかりある人物
参考文献
- 『復刻版 帝國實業名鑑』 1983年
- 『米子商業史』 1990年 399-402頁