驪山
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歴史
「始皇帝陵」としての「驪山」
始皇帝が埋葬された場所も、史料によって文字が異なるが、「驪山」と呼ばれていた[2]。現在は始皇帝陵と呼ばれているが、この名称は漢代以降になってからのことである。始皇帝陵は驪山の北麓にあるが、西北麓の地域には始皇帝の父である荘襄王や曾祖父の昭襄王の墳丘の他、漢代皇帝の陵墓が存在している。
驪山に関する具体的な記録に関しては『水経注』によると、「驪山の北は金を産出し、南は玉を産出する」とあり、『漢書』地理志では、驪山の南、藍田谷で美玉を産出するという記録などがある。
- 『史記』:驪山(驪山は自然の山)
- 『漢書』:驪山
- 秦代(同時代)の出土資料:麗山園・麗山邑・麗邑
漢代以降の史料
- 始皇帝冢:『史記』巻八高祖本紀
- 始皇冢:『水経注』
- 始皇陵:『史記』巻六正義注引『関中記』
- 秦始皇陵:同引『括地志』
驪山山中の遺跡「撃鼓坪遺跡」
始皇帝陵の南に位置する驪山山中の北に大きく張り出した尾根の先端部から、撃鼓坪遺跡が発見され、秦代の建築以降の瓦片が出土された。地元の伝承では始皇帝陵を築く際、始皇帝陵や陵園全体を見渡せるこの地で太鼓を打ち鳴らしながら始皇帝陵建造の指揮を執ったと伝えられる[2]。
始皇帝陵の南北中心軸としての「驪山」
始皇帝陵を建造するにあたり、「望峯[3]」と呼ばれる、驪山山中の基準点が存在していたことがわかっており、フィールドワークにより場所は推定されている(驪山北面・鄭家庄の峰)ものの、その場所であるかどうかは現時点で結論は出ていない。最高峰の山頂は仁宗廟であるが、始皇帝陵を眺望することができない。
エジプトのピラミッドとの相似性
始皇帝陵だけでなく、漢代皇帝陵にも当てはまるが、これらの陵墓は渭水に沿うようにして河岸段丘上の緩やかな斜面に建造されており、エジプトのナイル川西岸に集中して建造されたピラミッドの分布との相似性が指摘されている[2]。