二風谷
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河川
平取町役場がある平取市街より国道237号を沙流川沿いに4 km ほどさかのぼった地点にあたる。
人口の過半数をアイヌが占め、北海道内でアイヌの比率が最も高い地域とされる[2]。
萱野茂二風谷アイヌ資料館や、二風谷アイヌ文化博物館があり、アイヌの伝統的な家屋のチセを訪れることが可能である。また、びらとり温泉や二風谷ファミリーランドといった娯楽施設、旧マンロー邸(現:北海道大学文学部二風谷研究室、人類学者でもあるニール・ゴードン・マンローが、1933年より1942年まで、医院を開業し居住していた邸宅)が所在する。
地名の由来
歴史
遺跡
江戸時代
- 1808年(文化5年)、同年の成立とされる『左留場所大概書』(『東夷窃々夜話』所収)に集落の名称として「ニヒタニ」が見え、戸数は11軒とある[7]。
- 1826年(文政9年)、この頃の成立と推定されている高橋景保の蝦夷図には「ニプタニ」とある[8]。
- 1858年(安政8年)、松浦武四郎が、二風谷を訪れ、「ニプタニ」「ピパウシ」「カンカン」のコタン名および合計116人の住民数を、「左留日誌」に記録する[9]。
明治
- 1874年(明治7年)2月、戸籍編成のための大区小区制が適用され、日高国五大区沙流郡の三小区二風谷と決定される[10]。
- 1892年(明治25年)11月、平取小学校特別分教場(のちの二風谷小学校)が開校となる[11]。
- 1899年(明治32年)7月1日、行政組織としての「二風谷村」が発足する[12]。
大正
- 1920年(大正9年)、第一回の国勢調査にて、二風谷村の人口が311人であった[13]。
- 1923年(大正12年)4月1日、「二風谷村」が「平取村」および付近の村と合併し、「平取村」の一部となる[14]。
昭和
- 1930年(昭和5年)、ニール・ゴードン・マンローが、二風谷にて、医院を開業する[15]。なお、医院は、1942年まで営業する。
- 1954年(昭和29年)11月1日、「平取村」が「平取町」となり、二風谷も「平取町大字二風谷」となる[16]。
- 1972年(昭和47年)3月、二風谷アイヌ資料館が完成する[17]。
- 1973年(昭和48年)、二風谷ダムが、着工となる。同年4月1日、字名地番改正で二風谷は「平取町字二風谷」となる[18]。
- 1987年(昭和62年)、二風谷ダムの、強制収用の手続きが行われる。
平成
施設
学校および研究機関
- 北海道大学文学部二風谷研究室(旧マンロー邸)
- 二風谷54-1[21]
- 平取町立二風谷小学校
博物館
- 萱野茂二風谷アイヌ資料館
- 二風谷79[24]
- 二風谷アイヌ文化博物館
- 二風谷55[25]
- 沙流川歴史館
- 二風谷227-2[26]
- 平取町アイヌ文化情報センター
- 二風谷61-6[27]
郵便局
- 平取二風谷簡易郵便局
- 二風谷74-6
娯楽施設
宿泊施設
温泉
- びらとり温泉
- 二風谷94-8
ダム
その他
- 二風谷ファーム - 競走馬を生産する牧場の他、競走馬の調教施設である二風谷軽種馬育成センターがあり、嘗てはトウカイテイオーやサイレンススズカなどの名馬がここで調教されていた。
交通手段
- 道南バス『資料館前』『びらとり温泉前』バス停下車。
宿泊
関連人物
出身人物
- 貝澤正 - 北海道ウタリ協会副理事長を務めるなど、アイヌ民族の復権運動に取り組んだ。平取町町議会議員をしていたこともある。二風谷ダム建設反対訴訟の共同原告の一人。
- 萱野茂 - アイヌ民族初の国会議員で、1994年8月から1998年7月まで、参議院議員をつとめる。萱野茂二風谷アイヌ資料館を設立する。
- 山道康子 - アイヌ名、アシリレラ。山道アイヌ語教室を運営。「アイノモシリ一万年祭」実行委の中心人物の一人
- 貝澤耕一 - 二風谷ダム建設反対訴訟の共同原告の一人。NPO法人チコロナイ元理事長。
- 萱野志朗 - 萱野茂二風谷アイヌ資料館館長を務める。アイヌ民族党代表。
ゆかりの人物
- ニール・ゴードン・マンロー - 1863年生まれのスコットランド人医師で、1930年から1942年まで、二風谷にて医院を開業し邸宅を構えていた。