五料関所
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五料関所の設置

関所の設置
五料関所は、五料宿の東端の利根川に臨む位置に設けられた[1]。明和元年(1764年)以来の「道中奉行管轄の街道として、重視された渡船場」という[1]。
五料関所の設置時期には諸説あり、元禄10年(1697年)9月という説の他[1]、元和2年(1616年)の「定船場法度」に定船場とあること[1]、寛永13年(1636年)に幕府から五料に宛てられた「上野国五料の定」から、寛永13年以前には設置された[1]ものと考えられている。
また、寛永8年(1631年)「幕閣の重臣連署のもとに、東国の各関所規定を出し、女・手負い・欠落者など怪しい者の取締りと、それを捕まえた者への褒賞が達せられた」[2]。この規定書では、「箱根(東海道)・関宿(日光東往還)・小仏(甲州道中)などともに、小岩・市川(佐倉街道)、新郷・川俣(日光裏街道)、柴・五料(日光例幣使街道)、金町・松戸(水戸街道)、房川渡し中田(日光道中)」などの定船場が記されていた[2]。
関所の管理
五料関所は、「前橋藩の管理」となり、「関番士は、藩士3名(番頭1・番士2名)が2か月交替の勤仕」であった[1]。加えて、「五料宿の上下組の名主1名宛・組頭4,5名宛、それに長百姓や同宿在住の改女・船問屋等に出仕させていた」という[1]。
五料関所の検閲
「江戸幕府が関所を設けた目的は、幕府の政策を維持して、破綻」しないようにしたものであり、「国内の治安警察権を行使するため」のものであった[3]。
これらの関所は「諸国御関所書付」に記され、五料関所もその中に含まれている[4]。
その中で、関所における検閲が記されており、女の通行に留守居証文を必要とすることが記されている。
定船場の掟書き
元和2年(1616年)徳川家康の死後に、関東河川の定船場(松戸・市川・川俣・房川渡他、16ヶ所)に定め掟書がだされた[5]。江戸を出る女人と手負いの者は取り締まりを厳重にしていた[6]。
一 定船場以外の場所において、みだりに往来の者を渡してはならない。
— 『御触書覚保集成』に拠る、(本間(1988)636-637頁)。
一 女や手負いそのほか怪しい者はいずれの渡川場においても留め置き、早々江戸へ注進すること。但し、酒井忠利発行の手形を所持する者は異議なく通すこと。
一 隣の村へ通行するほどこの渡船場でも通してよい、女人や手負いの者以外でも不審がなければ、その他の領主や代官の手形を所持する者は渡してよい。
一 定船場であっても、女人・手負いまたは怪しい者は、たとえ酒井忠利の手形を所持した者でも、通してはならない。
一 すべて江戸へ来るものは改めるに及ばない。
入鉄炮出女
五料関所の改め(入鉄炮出女)は、武具の検閲は厳しくなく、他方女の通行改めは厳重であった。「武具の検閲はなく、鉄砲についても10挺以上の入鉄炮に老中証文が必要」であるが、鉄炮運搬には「比較的下級官吏の証文」で認められていた[7]。
「女の通行改めは厳重で」、江戸からの出女は幕府留守居の証文を必要とした。上方から中山道を下り奥州への通過には「上方で所定の証文を取得して福島関所へ持参し、同所で碓氷関所への書替証文をもらい、さらに碓氷関所で五料関所への書替証文を」取得する必要があった[7]。
関所の廃止と史跡指定
五料関所跡に関連する史跡には、「五料関所跡門柱礎石・井戸」があり、玉村町で町史跡に指定されている[8]。
- 五料関所跡門柱礎石
- 同
