福島関所
長野県木曽町にあった中山道の関所
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概要
福島関所の設置
木曾福島関所の設置時期には諸説あり、慶長7年(1602年)、慶長8年(1603年)、慶長9年(1604年)、または慶長7年以前とする説、大坂の陣の頃との説がある[2]。
『心計記』によると、妻籠に口留番所がおかれていたが、関ヶ原の戦い以降の交通整備により福島に移転した[3]。元和9年(1623年)に、福島関所は妻籠口留番所に代わって本格的な関所が置かれた[3][✝ 1]。
御関所は慶長の頃まで、急度は之れなく、つまごに口留番所と申し、石川備前代より之れ有の由、関ケ原大坂御勝利、天下一統御泰平に罷り成り候て、国々の往還道筋、宿並びに関所等も極り候節、福島へ引候て、中山道にて福島碓氷両所の御関所と定まり候由 — 『心計記』、家高荒治郎著『木曽福島関所』、(大島(1995)150-151頁。所収)
福島関所の所在地
福島関所の改め
福島関所の管理
福島関所を支配したのは山村甚兵衛家であった[4]。
「入鉄炮出女」
木曾福島の改めは、以下の「諸国御関所改方之次第」に示されている[5]。また、「木曽路名所図会」によると、「入鉄炮出女」の検閲が東海道の今切関所(荒井)並みと記されている[6]。
信州福島 高札之れなし 山村甚兵衛一 女・禅尼・尼・此丘尼・髪切・小女・乱心 男女とも・手負 男女とも・囚人 男女とも・首 男女とも・死骸 男女とも
右の通り相改め、御留守居方証文にて相通し候由、ただし国々より下り候時は諸国奉行中証文をもって相通す。二条大坂在番の面々ならびに家来乱心手負等下り候時は、御番頭手形にて相通す
一 鉄炮の儀、江戸え入り候数箇は、御老中御証文をもって通し候、持筒は自分手形をもって相通候由、此の外武具類相改めず
但し二条大坂等え御用にて罷り越候面々は登りの節、員数証文取置き、下りの節引合せ通す。且つまた、上方え出候鉄炮にても、所替等にて出候時は、御老中御証文をもってあいとおし候由
一 夜中御用の継飛脚の外は相通さず、但し諸大名・早追の飛脚は断りこれ有り候えば相通す
一 福島御関所より七里脇、贄川と申す所にて江戸え下り候女、改め申し候、鉄炮は相改めず。是は福島御関所通り申さず候て、飛騨より木曾路への脇道にて、旅人往来これ有るに付添え番所申し付け置候由、女ハ一切通さず候由
— 「諸国御関所改方之次第 風来書」より、、大島(1995)、154-155頁。
福島関嗌駅の右の方に御番所あり、此の所、女と鳥銃(てっぽう)とを御改め、遠州荒井の如し
— 『木曽路名所図会』、大島(1995)151-152所収。


