五香
千葉県松戸市の町名
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ここでは隣接する五香南(ごこうみなみ)、五香西(ごこうにし)及び五香六実(ごこうむつみ)についても述べる。これらはもとは「五香六実」であったのであるが、1994年に、五香六実から六実が誕生(1丁目から7丁目)すると、翌年の1995年に五香1丁目から3丁目と五香南1丁目から3丁目、1998年に五香4丁目と5丁目、五香西1丁目から3丁目、2001年に五香6丁目から8丁目、五香西4丁目から6丁目まで誕生した。
地理および概要
五香駅を中心に、松戸市の東部に広がる。
五香
現行行政地名は五香一丁目から五香八丁目。郵便番号は270-2213[2]。
住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、五香1丁目20番21の地点で11万円/m2となっている[7]。
五香南
現行行政地名は五香南一丁目から五香南三丁目。郵便番号は270-2212[4]。
住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、五香南3丁目14番12の地点で11万3000円/m2となっている[7]。
五香西
現行行政地名は五香西一丁目から五香西六丁目。郵便番号は270-2218[5]。
住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、五香西2丁目30番23の地点で10万6000円/m2となっている[7]。
牧の原と八柱霊園の田中新田に挟まれた地域は、初富飛地(はつとみとびち)という地名であった。
初富飛地
1869年(明治2年)に開墾政策によって初富村と五香六実村が開村した際、初富を開墾予定であった加太(かぶと)八兵衛の出資額に見合う土地が初富村に無く、五香六実村の中、現在の五香西や牧の原二丁目にあたる地域に加太のための土地があてがわれ、この土地が「初富飛地」という地名になった[8]。 日暮村の南の支谷と次の支谷に囲まれた台地にあたる[9]。
長らく隣村である鎌ヶ谷村、のち1958年(昭和33年)8月1日に町制施行・昭和46年9月1日に市制施行し鎌ヶ谷市、の初富の一部であったが、1953年(昭和28年)に、正式に松戸市に編入し、そのとき地名も初富飛地とした。千葉県立松戸国際高等学校(当時松戸東高校)、松戸市立牧之原中学校、松戸市立松飛台小学校、関東地方整備局(当時関東地方建設局)関東技術事務所などの住所所在地は初富飛地だったのである。
なお、旧初富飛地の南側を流れる春木川の河道敷地は源流の松戸市立第四中学校付近まで、長らく住所は日暮であった。またその河道敷地沿いの南側は、串崎新田の飛地であった。
五香六実
五香六実(17番地)はほぼ全域が陸上自衛隊松戸駐屯地の敷地内である。郵便番号は270-2211[6]。
ただし#小・中学校の学区をみるとおり、他の番地があり、これは五香内に飛地が3か所ほどあるためである。駐屯地の西側はもとは松飛台であった。
歴史
五香六実の地は、いまのように宅地造成される前は 雑木林と畑であった。いまの自治会館の裏側すぐの柏市には中島込遺跡という縄文時代の遺跡があり、碑文が建立されている。つまり、この辺の台地は千数百年前にすでに人が住んでいたのである。
江戸時代は将軍の御鹿狩りの中心地で、御立場のあったところでもあったので、五香六実開墾100年祭実行委員会では五香公園の整備と相まって、この地に記念碑を建立。将軍御鹿狩りの行事は近世房総史の中でも特筆すべき事柄であることから、御立場の位置を示す記念碑が建立されたということである。
地名の由来
明治新政府の手により、小金牧(千葉県北西部)および佐倉牧(同県北部)の開墾が行われ、開墾地には開墾順序に合わせて地名が付与された。初富(鎌ケ谷市)、二和、三咲(以上船橋市)、豊四季(柏市)、五香、六実(以上松戸市)、七栄(富里市)、八街(八街市)、九美上(香取市)、十倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市・多古町)の順に地名がつけられた[10]。
五香と六実は隣接し、入植時期も1870年(明治3年)1月[11]と同じであったため、間もなく合併し五香六実となった。そのため、各入植地に一社ずつ建てられた鎮守社も、五香六実では高龗(たかお)神社一社である。同社は開墾支援のための香実会所内に明治4年鎮座[12]とあり、同年までに合併し五香六実となっていた事が判る。
開墾地五香六実村は、開墾会社解散の後、1879年(明治12年)1月に隣村の佐津間村、粟野村と一緒に、連合戸長役場を置いた。 1884年(明治17年)5月になると栗ヶ沢、金ヶ作、千駄堀などの高木地区連合戸長役場の行政区域に入り、1889年(明治22年)高木村五香六実となった。以後、大正期を過ぎて、1943年(昭和18年)4月に高木村は松戸町と合併し、市政が引かれて、松戸市五香六実となった。
住宅地の開発
市内で民間造成の住宅地として、戦後比較的早く着手され、そして規模が大きいものに、戦前にいまの京成松戸線元山駅前にあたる地域の地崎団地があるが、これは、建設会社の北海道地崎組(のちの地崎工業→岩田建設→現岩田地崎建設)が、戦時中にあった大日本航空機会社工場跡地を造成したものである。五香南1丁目、ちょうどいまの松戸自衛隊駐屯地の通りを挟んで向かいにあたる。
大日本航空機会社工場とは、津田沼の伊藤製作所が養成所の東側に約1万坪の敷地を伴って、日本航空機株式会社(以下、日航)となって、いまの元山駅前付近にその工場を建てたもので、会社の従業員のほか 徴用工と、学徒動員者、女子挺身隊員など約 2,000名が稼働していた。また1943年(昭和18年)頃には、六実に住宅営団が建設担当した日航の社宅約160戸余りができた。このため、六実の世代数は一挙に倍以上に増加した。
終戦になると日航の工場は取り壊され、その従業員は若干が六実の社宅と近くの民家に残った。工場跡地は上記の団地のほかはいまの松飛台あたりまで開拓されて、周辺は大半が農地へと変わっていったのである。
五香六実の様子が大きく変わったその最初として語り継がれているのは、戦後になって、市が初めて行った北丘の建売分譲住宅を建てた頃からといわれる。1962年(昭和37年)に北丘地区のうち、金ヶ作寄りに市施工の住宅地が造成された。3回ほどに分けて住宅が建設され、第1北丘と第二北丘で200戸くらいとなった。同団地は五香駅より北東側の立地で徒歩で10分から15分ぐらいのところで、住宅環境として良好地であった。
こうした事業は、市が終戦後から毎年のように市内の住宅事情困窮者に対して行ってきた公営住宅の建設と供給の方針を少々変更し、市が市民に協力をして、戸建て住宅と宅地を斡旋するということで始めたものである。計画では1962年から1965年までに110戸を建設、他に40戸分の宅地をも分譲しようというものであった。1戸あたりの建坪は、14坪から18坪を計画。敷地は平均72坪、月の収入が3万円以上で頭金100万円から150万円を支払うことのできる人となっていた。この金額は当時とすると大変なものだったのであるが、いざ蓋を開けてみると好評で、たちまち毎回売り切れてしまうという具合であったという。
同じ頃では、常盤平も団地造成がほぼ完成したころであり、南隣の松飛台工業団地も活発に造成されている最中でもあったので、地区全体で住宅戸数が急速に増加をしてきていたのである。
付近は高木村時代に、金ヶ作に役場支所があったのであるが、その後1948年(昭和23年)4月1日にいまの高木第二小学校の敷地があるところに、高木第二出張所が開設された。ところが、常盤平団地の造成に伴い、1952年(昭和27年)4月に常盤平支庁が完成すると同時に、出張所は廃止されてこの支所へ吸収統合される。近くにあった役所支所が遠くなることで、特に五香六実で五香駅東側の、いまの六高台や六実等の住民らは、大変不便なことになったのである。しかしこれが1975年(昭和50年)頃になると、五香六実地区は区画整理事業など地域開発が進展して人口が増大、翌年の1976年(昭和51年)になると、旧来の五香公民館では手狭となり、五香市民センターが新たに開設される。
そこで地元関係者が奔走、その結果1979年(昭和54年)7月に六実支所が開設された。職員は 9名で行政の範囲は六実、五香の一部及び高柳で、1982年(昭和57年)度には5,632世帯、19,200名を受け持っていることになる。支所の2階には市民センターも併設されて、その地域の各種の催しや文化の交流に利用されることとなった。
その間地域交通は、1957年(昭和32年)2月に、五香駅と北小金駅 間の九キロメートルと、北小金駅と鎌ヶ谷大仏駅の間を新京成バスが開業し、さらに 同年6月には五香駅から馬橋駅間のバスが運行を始め、1959年(昭和34年)4月には京成バスが、松戸から白井町平塚間の21.5キロメートル間を運行開始した。当初の頃はそうした交通体系になれなかったこともあって、乗客はガラガラであったが、やがて沿線の 宅地化が進むのに連れて、利用者は増えてきた。
隣村の鎌ヶ谷村が町になったのは、そうした頃の1958年(昭和33年)8月である。しかしまだまだ五香六実のほうは農村地帯であって、1959年(昭和34年)10月には、東部の紙敷青年館とともに五香公民館にわずか150冊の図書を備え付けた移動図書館が開設され、これが話題になるという時代であった。また、この年は新農村建設 5カ年計画によって高柳新田と五香六実の350戸に有線放送電話が設けられたところで、電話の自動化の最も遅れた六実がダイヤル化されたのは、松戸電報電話局の五香分局ができた直後、1966年(昭和41年)11月からであった。
世帯数と人口
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[14]。
五香
| 丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|---|
| 五香一丁目 | 1番地 4番地の17~19 37番地の1~6 | 松戸市立金ケ作小学校 | 松戸市立第四中学校 |
| その他 | 松戸市立松飛台第二小学校 | ||
| 五香二丁目 | 全域 | 松戸市立高木第二小学校 | |
| 五香三丁目 | 全域 | ||
| 五香四丁目 | 全域 | ||
| 五香五丁目 | 全域 | ||
| 五香六丁目 | 全域 | 松戸市立金ケ作小学校 | |
| 五香七丁目 | 1~4番地 12~17番地 25~37番地 42番地 | ||
| 5~11番地 18~24番地 38~41番地 43~67番地 | 松戸市立高木第二小学校 | ||
| 五香八丁目 | 全域 |
五香南
| 丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|---|
| 五香南一丁目 | 27~30番地 | 松戸市立松飛台第二小学校 | 松戸市立第四中学校 |
| 1~25番地 | 松戸市立高木第二小学校 | ||
| 五香南二丁目 | 全域 | ||
| 五香南三丁目 | 全域 |
五香西
| 丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|---|
| 五香西一丁目 | 全域 | 松戸市立松飛台第二小学校 | 松戸市立第四中学校 |
| 五香西二丁目 | 1~3番地 5~38番地 39番地の1~9 40番地 41番地の1~15 50番地の1~8 50番地の25~29 | 松戸市立松飛台小学校 | |
| 39番地の10 41番地の16~31 43~49番地 50番地の9~24 51~66番地 | 松戸市立牧野原中学校 | ||
| 五香西三丁目 | 1~3番地 5番地 9~14番地 21~35番地 | ||
| 6~8番地、15~20番地 | 松戸市立牧野原小学校 | ||
| 五香西四丁目 | 31番地の2~4 33番地の3~5 34~39番地 48番地 | ||
| 1~30番地 31番地の1 32番地 33番地の1〜2 40~47番地 49~50番地 | 松戸市立松飛台小学校 | ||
| 48番地 | 松戸市立河原塚小学校 | ||
| 五香西五丁目 | 39~41番地 43~47番地 | ||
| 1~38番地 42番地 | 松戸市立牧野原小学校 | ||
| 五香西六丁目 | 全域 |
五香六実
| 大字 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|---|
| 五香六実 | 249番地の11 270番地 270番地の109 612番地の2 |
松戸市立高木第二小学校 | 松戸市立第四中学校 |
| 17番地 | 松戸市立松飛台第二小学校 | ||
| 7番地の1 7番地の48 7番地の146 7番地の147 7番地の149 7番地の150 7番地の176 7番地の189 |
松戸市立牧野原中学校 |
交通
施設
史跡
- 野馬除土手(五香)
- 鮮魚街道松戸みち(五香)- 付近ルートは六実方面から千葉県道281号松戸鎌ケ谷線と重なる。千葉県道57号千葉鎌ケ谷松戸線と交差する五香十字路交差点付近から千葉県道281号と分岐し、五香駅東口に向かうルートとなる