井上正就
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| 時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
|---|---|
| 生誕 | 天正5年(1577年) |
| 死没 | 寛永5年8月10日(1628年9月7日) |
| 別名 | 通称:半九郎 |
| 戒名 | 忠源院殿隆昌日操大居士 |
| 墓所 |
静岡県掛川市西大渕の本源寺 東京都豊島区雑司が谷の本納寺 東京都大田区の池上本門寺 |
| 官位 | 従五位下、主計頭 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川秀忠→家光 |
| 藩 | 遠江横須賀藩主 |
| 氏族 | 三河井上氏 |
| 父母 | 父:井上清秀、母:永田氏 |
| 兄弟 | 重成、正友、正就、政重 |
| 妻 | 正室:市川孫左衛門の娘 |
| 子 | 正利、正義(正昭)(次男)、松平信綱正室、本多忠利正室、久世広当正室、佐久間安長正室(のち九鬼隆季継室)、水野忠善正室、酒井重澄正室、稲垣茂門正室ら |

井上 正就(いのうえ まさなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、譜代大名、江戸幕府老中。遠江国横須賀藩初代藩主。浜松藩井上家初代。
天正5年(1577年)、徳川氏家臣・井上清秀の三男として遠江に生まれる。
母が徳川秀忠の乳母であったため(大姥殿と称された秀忠の乳母は岡部氏で、正就の母の永田氏とは別人である[2])、正就も早くから秀忠に近侍した。
慶長20年(1615年)1月、1万石加増と同時に小姓組番頭に就任した(同時期の小姓組番頭は他に水野忠元、成瀬正武、板倉重宗、日下部正冬、大久保教隆)。また、大坂夏の陣にも参陣した。
元和8年(1622年)、5万2,500石をもって横須賀藩主となった。この頃より江戸幕府老中職に就いた。
旗本で幕府目付であった豊島信満は、正就の嫡子・正利と大坂町奉行・島田直時の娘とを縁組し、仲人を務めることに約定していた。しかし、3代将軍・徳川家光の乳母・春日局が正就に鳥居成次の娘との縁組みを持ちかけ、正就は直時との縁組みを破談にした。
仲人としての面目が潰れたことを恨んだ信満は、寛永5年(1628年)8月10日、登城した江戸城西の丸廊下で行き会った正就に対し「武士に二言は無い」と叫んで脇差で斬りつけて殺害した。
番士の青木義精が信満を羽交い締めにして取り押さえたが、信満は脇差で自分の腹を刺し貫き絶命した。脇差は義精にまで達し巻き添えとなった。
井上家はお咎めなしで正利への相続が認められた。豊島家は老中酒井忠勝の配慮により信満の嫡子・継重の切腹と御家断絶の処分のみで一族への連座はなかった。島田直時はこの事件への責任を感じて自害した。
墓所は静岡県掛川市の本源寺。これは正利が父のために建立したものである。
次男の井上正義(正昭)は分知を受け、5千石(下野国西方の庄、のち常陸国筑波郡)を領する大身旗本となった。その次男の正晴のさらに次男が、井上正長の養嫡子正矩である。