井出八郎右衛門
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生い立ち
三河国出身[2]。八郎右衛門は「厩舎人」(うまやのとねり。馬の世話をする役人[4])を務めていた[5][6]。ほかに、馬の口取り、草履取り[注釈 1]、槍持ち[注釈 2]とも伝えられる[1]。八郎右衛門の上司(頭)が畔柳武重[注釈 3]との記述もあり[9][10]、そうであるならば中間頭である畔柳武重配下の中間(御家人身分。五役参照)である。
紀州藩士となった子孫の家の系譜によれば、八郎右衛門は若い頃より父とともに徳川家康に仕え、三方ヶ原の戦い(1573年)、小牧・長久手の戦い(1584年)、関ヶ原の戦い(1600年)など各地の戦いに従軍し、家康が没した頃には「老衰」により奉行を免じられていた[2]。年齢は不明であるが[7][注釈 4]、父親は存命であり、惣領(継嗣)が3歳であったという[2]。
殉死

元和2年(1616年)4月17日、徳川家康は駿府城において没した[11]。家康の棺はその夜のうちに久能山に移され[11]、19日に仮殿で葬儀が行われた[12]。
厩舎人の井手八郎右衛門が殉死したことは、江戸時代中期成立の『明良洪範』に記載がある[13]。有渡郡安居村(現在の静岡市駿河区安居)の石蔵院(曹洞宗)門前に、正徳5年(1715年)に子孫によって建てられた墓碑があり、4月19日に殉死とある[14][15]。
家康は死に臨んで家臣の殉死を禁じたとされ[16][注釈 5]、江戸時代後期成立の『駿国雑志』[注釈 6]によれば、殉死者は八郎右衛門一人であった[16]。
『明良洪範』『駿国雑志』の記述
『明良洪範』は、家康の死亡記事に続き、「厩の舎人」であった八郎右衛門が「若年の頃から(家康に)お仕えし、幾度かの戦場でも馬の側でお供してそのお言葉をうかがっていたので、あの世までもお供したい」と畔柳武重に伝えると、たちまち腹を切って果てた、と記す[13]。
『駿国雑志』[注釈 7]は、八郎右衛門と畔柳武重との会話は、久能山での葬儀に従った後になされたと記している[9][10]。
『駿国雑志』が引く諸書の記述
また『駿国雑志』は、諸書から殉死についての記事を引く。
- 紀州藩士井出家の家譜によれば、八郎右衛門はかねて殉死の意志を打ち明けて酒井藤九郎に介錯を依頼しており、家康が没したという知らせを受けて家族にも告げた。4月19日、久能山に参って「お供」を申し出たが、本多正純(上野介)・松平正綱(右衛門大夫)らの歴々から思いのほか叱責された上に「番人」を付けられたために、下山するよりほかなかった。八郎右衛門は「どこでお供しても同じことである」と久能山の麓(の石蔵院の門前[2])で小脇差を腹に突き立てた。酒井を呼んだが、酒井はその場に居合わせなかった。「九郎左衛門」という者(名字を失伝)がその場におり、八郎右衛門を介錯した[7][2]。
- 水戸藩士井出家の家譜によれば、八郎右衛門は家康死去の折に殉死する意志があったが、制禁されていたために時機を逸してしまい、19日に石蔵院において腹を切った[1]。八郎右衛門が介錯を求めたので、中山信吉(水戸藩附家老)が介錯の者を派遣した[1][注釈 8]。
- 石蔵院の寺伝によれば、家康の棺は一時石蔵院に立ち寄っていた。石蔵院から久能山に出棺したのち、寺の前で八郎右衛門が殉死した[23]。
石蔵院の伝承

現代の石蔵院は、以下のように八郎右衛門の殉死を語る。
安居村は、久能山東照宮が造営されると榊原照久(久能山東照宮祭主)の知行地となり、禰宜たちや守衛の与力・同心たちが住むなど[25]、久能山東照宮と密接に関わる村となった。この安居村にある石蔵院は、家康が駿府に移る際に帰依していた總寧寺(現在の千葉県市川市)住職・勝国良尊を開山として迎え、慶長12年(1607年)に開かれたと伝えている[26]。家康の死後、その霊柩を久能山に奉送する途中に石蔵院で休息し、その際に勝国良尊によって引導回向がなされたという[27]。ただし、天保年間に駿府町奉行を務めた加藤正行(靫負)が記した[28]『なおりその記(名乎理曾の記)』によれば、石蔵院には寺記がなく、家康の棺が立ち寄ったことなどは口伝によると記している[14][注釈 9]。
その後
八郎右衛門の殉死は禁制に背くことであったため、八郎右衛門の嫡子であった弥八郎には処罰が下されたが(「番人」が付けられた)、のちに赦された[2](『南紀徳川史』によれば、「番人」は3日を過ぎると引揚げたという[29])。その後、弥八郎は紀州に移り、その家は紀州藩士として続いて代々「八郎左衛門」を称したという[30][注釈 10]。また井出家には水戸藩士になった系統もあり(弥八郎の弟の子孫という)、代々「新内」を称したという[1]。
顕彰

八郎右衛門の自刃の地である[24]石蔵院門前(「地蔵堂の横」[24])に墓所が設けられ[32][2]、埋葬された[24]。紀州藩士井出家の家譜によれば、幕府によって石塔が立てられたという[7]。
正徳5年(1715年)、相模国亀井野村(現在の神奈川県藤沢市亀井野)の山田善庵[33][15](『駿国雑志』は「山田喜庵」とする[1])という医師が、駿府御番衆とともに駿府にやって来た[1]。山田善庵は八郎右衛門の曽孫にあたるという[1][注釈 11]。山田善庵は4月19日に遠忌法要を行い、墓碑や井垣の整備を行った[1]。現存する八郎右衛門の墓碑は[24]、山田善庵の建立による[33][15]。
『駿国雑志』によれば、紀州藩主が久能山に参詣した際に八郎右衛門の墓域が「大破」しているのを見、その子孫である家中の井出八郎左衛門に修繕を命じた[34]。また、水戸藩士の井出長養(新内)も家系図一巻を石蔵院に奉納した[34]。
江戸時代後期に成立した『駿国雑志』『なおりその記』および『駿河国新風土記』[注釈 12]によれば、村人たちは八郎右衛門の墓を「大仏(大ぼとけ[15])」と呼び、瘧(おこり)を病む者が祈ると霊験があったという[9][33]。
昭和初期には、八郎右衛門の忠義を称えて顕彰碑が建てられた[24]。
系譜
八郎右衛門の子孫は紀州藩と水戸藩で続いたが、双方で語られる内容に相違がある。
紀州藩士家
井出家は清和源氏の末流で、源頼義の子孫という[2]。八郎右衛門の父・井出弥惣は、長く徳川家康に仕えて各地に従軍したが、のちに養珠院(徳川頼宣生母)に附属されて200石を知行した[2][36]。弥惣は八郎右衛門の殉死時も存命であった[2]。八郎右衛門の嫡子・弥八郎義命[注釈 13]は当時3歳であったとする[2]。
八郎右衛門の跡を継いだ弥八郎には5人扶持が下され、その後も駿府に暮らしていたが、頼宣に附属された弥惣とともに紀州に移った[2]。弥八郎は御広敷番を務め、元禄4年(1691年)に78歳で死去した[31]。『南紀徳川史』によれば、弥八郎のあとは惣領の善之右衛門(はじめ弥三郎)が継ぎ、善之右衛門に嗣子がなかったために同族の半之右衛門正則(後述)の次男・七郎右衛門尚治が名跡を継いだ。その子孫は代々御馬預・御厩支配を務めて知行200石を与えられた[31]。
また、弥惣の二男(すなわち八郎右衛門の弟)である兵作も別家を立てて紀州藩に仕えた[31]。兵作の長男の半之右衛門正則[注釈 14]は馬術に優れていたために召し出されて別家を立て、御厩支配を務めて知行100石を与えられた[40][注釈 15]。半之右衛門の家は馬術を家業とし、子孫は御馬役・御厩支配などを務めた[40]。兵作の家は二男の弥平太(のちに兵作)が継いだ[38]。
水戸藩士家
井手家の本姓は穂積氏で、紀州の鈴木氏の流れを汲む[1]。家紋は「稲穂の内井桁」[1]。
八郎右衛門は諱を長武といい[1]、徳川家康に仕えて遠江国で没した井手長左衛門秀時の子である[1]。八郎右衛門長武には3人の子(弥八郎長道、長左衛門秀重、平作吉邦)があった。長左衛門秀重の子・平左衛門長陣にも3人の子(諸右衛門秀信、次郎八長常、平左衛門長養)があり、三男の井出平左衛門長養はのちに「新内」と称した[42]。